教会だより

2019年11月754号

永遠の命の行方

アダム・クジャク

11月は死者の月ですから、私たちは自分自身の将来、即ち永遠の命について考えさせられます。カトリック教会のカテキズムによると、『永遠の命とは、死後、すぐに始まるいのちのことです。この命は終わることがありません。これに先だって生者と死者の裁き手であるキリストによって一人ひとりに対する私審判が行われます。永遠のいのちは、最後の審判によって証認されます。私審判とは、すぐに報いを決定するために行われる裁きのことです。一人ひとりがその死のときから、不滅の霊魂において、自らの信仰とわざに基づき、神から報いを受けます。この報いとは、すぐに、(天国)あるいはふさわしい清めの後に天の至福に入ること(煉獄)もしくは地獄において永遠の苦しみを受けることです。』と記されています。

私は聖人ではないので、死後の世界を経験することも予知することも出来ません。しかし特別な恵みを頂いた聖人たちは神様から選ばれ、永遠の命についてみんなに伝えなければならない使命を受けられました。天国、煉獄、地獄を見せられた聖人はファティマの3人の子どもたち、聖パドレ・ピオ・聖ファウスティナほか沢山います。今日はその中で聖ファウスティナの日記に書かれている場面を読んでみましょう。

天国

「1936年11月26日。今日、霊において天国にいて、死後私たちを待っている、考えられないほどの美しさと幸せを見ました。全被造物が神に絶え間ない賛美と栄光を献げている様子を見ました。神との一致の幸せがどんなに偉大であるかを見ました。それは全被造物に広がり、彼らを幸せにしています。そして、この幸せから発するすべての栄光と賛美は、その源へ戻ります。〔天国の〕全被造物は神の深みの中に入り、父と子と聖霊である神の内的生命を観想しています。神の内的生命を、彼らは決して〔完全に〕悟ることも究めることもないでしょう。この幸せの源は、その本質において不変ですが、それは、常に新しく、全被造物のために幸せを湧き出させています。今や、わたしは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」」〔ーコリント2・9〕(日記777)

煉獄

 「〔次の夜〕わたしの守護の天使を見ました。天使は自分について来るようにとわたしに命じました。すると、一面が火の海で、霞がかかったようなところにいました。そしてそこに、非常に多くの苦しんでいる霊魂がいました。彼らは熱心に祈っていましたが、自分たちのためには何の役にも立ちませんでした。わたしたちだけが彼らを助けに行くことができるのです。霊魂を焼いている炎は、わたしには触れませんでした。守護の天使は一瞬間もわたしを離れませんでした。これらの霊魂に、「あなた方の最大の苦しみは何ですか」と尋ねると、皆が一斉に、「最大の苦痛は、神を熱望する心が満たされないことです」と答えました。煉獄の霊魂を訪問なさる聖母を見ました。霊魂たちは、聖母を「海の星」と呼んでいます。聖母は、彼らの苦しみを少し和らげられます。もう少し話したかったのですが、守護の天使が行こう、とわたしに合図しました。わたしたちは、苦しみのその牢獄を出ました。〔その瞬間に内的な声を聞きました。〕それは、こう言いました。「わたしの慈しみはこれを望まないが、正義がそれを要求する。」その時から苦しむ霊魂とより親しく交わっています。」(日記20)

地獄

「今日、天使によって地獄に深い淵へ導かれました。それは大いなる責め苦の所です。それはどんなに深い恐怖心を起こさせるほど大きく広大なのでしょう!私が見た責め苦の種類地獄を構成する第一の責め苦は、神の喪失です。第二は、良心の絶え間ない呵責です。第三は、〔そこにいる〕悪魔や霊魂の状態は決して変わらないということです。第四は霊魂を滅ぼすことなく、それを刺し貫く火ですー恐ろしい苦しみ。なぜならそれは、神の怒りによって灯された純粋に霊的な火だからです。第五の責め苦は、絶え間ない闇と、すさまじく息苦しくさせる悪臭です。そして、暗黒であるにもかかわらず、悪魔たちと罰せられた霊魂たちは、お互いとすべての悪とを、自分の罪も他人の罪も両方を見ています。第六の責め苦は、絶えず悪魔と一緒にいることです。第七の責め苦は、恐ろしい絶望、神への憎しみ、下劣な言葉、呪い、そして冒涜です。これらは、断罪された者たち全員が一緒に苦しんでいる責め苦です。しかし、それは苦しみの終わりではありません。特殊な霊魂たちに定められた特別な責め苦があります。これは感覚の責め苦です。各々の霊魂は、罪を犯した仕方に関連した、恐ろしい表現できない苦しみを受けます。責め苦の洞窟や穴があり、そこでは、苦悩の一つの形式は他の形式と異なります。もし神の全能がわたしを支えてくださらなかったなら、これらの責め苦を見ただけで死んでしまったでしょう。

罪人は、自分が犯すために利用した感覚において、永遠に亘って責め苦を受けることを知ってください。これを神のご命令で書いています。と言うのは、地獄はないとか、そこから戻って来た者は一人もいないので、地獄がどんなものかだれも言えないとか言うことによって、いかなる霊魂も言い訳をしないようになるためです。〕(日記741) 私たちは生きている間、神の恵み=天国に入るチケットを持っていますが、それを受け入れるか否かは、それぞれ自由意志に任されています。しかし、死が訪れたときにすべて決まります。

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