2025年12月827号
待降節:シノドス的な小教区共同体として、聖年のクリスマスを準備
【ラジュ・アントニー】

聖年の今年、待降節という聖なる季節を迎えるにあたり、教会は、刷新と振り返り、そして喜びに満ちた希望の時へと私たちを招いています。聖年のテーマである「希望の巡礼者」は、待降節の歩みと深く共鳴しながら、私たちが孤立した旅人ではなく、シノドス的な共同体であることを思い出させてくれます。つまり私たちは、ともに歩み、聖霊に耳を傾け、救い主を迎える準備として、私たちの心と小教区共同体を整えていくのです。待降節はクリスマスまでの単なるカウントダウンなのではありません。それは、聖なる巡礼であり、暗闇を抜け、決して消えゆくことのない光へと向かうものです。私たちは教会として、立ち止まり、待ち、私たちの心と共同体の中に、主の道を通すように呼びかけられています。騒々しさと恐れに満ち、分断に覆われた世界において、待降節は再び希望を呼び覚まします。それは、神が今も私たちとともにおられ、インマヌエル(マタイ1.23)が神の民の中に住み続けて下さるという希望です。希望の巡礼者として、私たちはベツレヘムの馬小屋に向け、つまり、謙遜と簡素さを通して神の栄光が現れ出る場をめざして、ともに旅をするのです。
故フランシスコ教皇によれば、シノドス流の教会とは、耳を傾け、同伴し、ともに識別する教会のことです。待降節は、これを実践するのに最善の環境です。戸部教会が、小教区共同体として、待降節中に「シノドス的」であるとは、次のようなことを意味するでしょう。――家庭や教会の仲間、近隣の人々との間で、互いの喜びや労苦に耳を傾けること。ミサやお祝い事、奉仕活動や祈りの集いなど、小教区の教会生活に積極的に参加すること。主のご降誕の準備として、キリストがどのように私たちを、回心と刷新、そして一致へと招いておられるのかを、ともに識別すること。シノダリティによって、待降節は、個人の霊的な営みから、ともに歩む信仰の旅路へと変えられていきます。私たちはひとりで準備するのではありません。キリストにおいて一つの体として準備するのです。
聖年は常に特別な恵みの時です。福音の中心である、いつくしみと赦し、そして新たな始まりへと立ち返る時です。教皇は、教会が「希望の巡礼者」として歩むよう招いておられますが、待降節は、私たちの霊的な巡礼を更新するチャンスです。巡礼者は身軽に旅するものです。重たいものは手放します。同様に私たちも、待降節中、憤りや傲慢、無関心を捨て去り、謙遜、和解、そして愛のうちに歩むよう招かれています。待降節における準備とは、内的な回心と共同体的な回心の両方を伴うものです。私たちは、小教区共同体として、祈りと奉仕そして連帯を通して、この精神を育むことができます。それは、例えば、待降節の典礼、アドベントクランツの祝福、赦しの秘跡に有意義にあずかることによって。また、貧しい人々に手を差し伸べ、愛しみ深い行動によってキリストを証しすることによって。そして、家庭において家族がともに祈ることを促進し、喜びに満ちた心でイエスを待ち望むことの意味を子供たちに教えることによって。そうすることで、私たちの小教区は、単なる礼拝の場に過ぎないものではなく、シノドス的な交わりと宣教への希望を証しする生きたしるしとなるのです。
私たちが、ついに降誕祭を迎えたとき、その素晴らしさは、飾りつけや音楽だけでなく、恵みによって変容された私たちの心のうちに輝くことでしょう。クリスマスは、神がすぐ近くにおられることのお祝いです。み言葉は人となり、私たちのうちに来られ、住まわれます。もし私たちが、待降節を相応しく過ごすなら、つまり、耳を傾け・祈り・奉仕する共同体として歩むことができるなら、降誕祭は、ただのお祝いの日というだけでなく、信仰と愛においてともに歩む教会としての、私たちのアイデンティティを新たにする日となるでしょう。聖年の今年、希望の巡礼者として、またシノドス流の教会の一員として、急いだり気を散らしたりすることなく、祈りに根差した期待のうちに、降誕祭の準備をしましょう。一つの家族である小教区共同体として、ともに歩みましょう。み言葉に耳を傾け、互いに支え合い、救いに来られる神に心を開きながら。私たちの待降節の旅が、私たちをベツレヘムへと導いてくれますように。そこでは、信仰のうちに待ち望むすべての人の心に、平和と喜び、そしてクリスマスの真の光、イエス・キリスト、インマヌエル―私たちとともにおられる神が見出されるでしょう。