2025年11月826号
死者への祈り、生者の祈り
【アウグスチヌス小關一邦】
「この世で確実と言えるものは、死と税金だけである」と言ったのはベンジャミン•フランクリン(米国独立に貢献した18世紀の政治家)だそうだが、脱税する人はいても、死を逃れる人はいないであろう。地上の生涯を終えたとき、無原罪ゆえに肉体と霊魂を天にあげられたマリア様と違い、罪深い私たちは死を経験してのみ復活の望みを持つことができる。死は本来、永遠の命へと通じる門であり、恐るべきものでない。ただ家族や友人を失った時に、すぐにその死を受け入れらないのも事実である。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言うヨブも、子ども達を失った際には衣を裂き、髪を剃り落としている(ヨブ1:20)。
コロナ禍の真っ只中、大学院時代の友人の訃報が届いた。他にももっと若く10代、20代で夭折した友人達もいるが、「死者の月」を迎えるにあたって最初に思い浮ぶのはこの友人である。コロナ禍前に最後に会った時に趣味の登山の話をしていた元気な姿、突然の病、そして最後にご家族に残したという「静かに去っていきたい」という言葉を、折に触れて思い返しているからだと思う。
学生時代、明るく朗らかで、常に友人達に囲まれている眩しい様子を見ていた私からすると、その最後の言葉はあまりに私の中の友人とはかけ離れている。ただそれはこの世の眠りにつくまで明るく賑やかに振る舞っていて欲しいという私の身勝手な願望の押し付けでしかないのかもしれない。また、病に身を蝕まれ、余命を感じつつ、苦しみを耐える中で、これまでの人生と残りの寿命をどのように思ったのかは、何とか健康を保っている今の私には、到底、理解できないのかも知れない。
カトリック信者でもあった友人は、静かに祈りの中でこの世界での最後の時間を過ごしたことだと思う。ただ何を思って逝ったのかは天国で再会した時に確認する他はない。理解しているつもりでも、やはりこの世界で再び言葉を交わすことができないのは、残念であり、寂寥の念を禁じ得ない。
「死者の月」は亡くなった人を思い、亡くなった人のために祈る月である。亡くなった人を思うということは、その死を受け入れる準備ができていなかった場合には、「もっとこうすれば良かった」、「ああしておけば良かった」と、反芻思考を伴ったり、反実仮想を伴ったりする。喪失感を消化できていないのである。その祈りは、死者のための祈りだけではなく、もはや自分の力では届かない相手に、キリストを通して再び繋げてもらうことを願う生者のための祈りでもあるように思う。
いずれ訪れる自らの死の日を思う。先に逝った人々との再会、残していく家族との思い出、これまでの人生でのさまざま出来事。何を思うかは私自身にもわからない。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25-26)という主のみことばこそが、私たちの希望の全てである。
神の母聖マリア、私たち罪人のために、今も死を迎えるときもお祈り下さい。