2025年09月824号
敬老の日に寄せて
【マリアの娘エスコラピアス修道女会 永本紀美子】
今年もまた、敬老の日を迎える。戸部教会で元気に働き、教会や人々のために尽くしてこられた多くの方たちも今は高齢となり、時に天国への旅立ちの知らせも受けるようになった。私たちエスコラピアス修道女会の最初の日本人の3人の姉妹たちも昨年の一年の間に、「順番ね」と言わんばかりに次々と旅立っていった。
一生懸命働いてきたのに、年を取ったら、不自由な身体と、回転のゆっくりになった頭と、なかなか思い出せない記憶と、時には病に侵された身体と、やるせない日々を送る方も多いのではないだろうか。また、昭和、平成、令和と生きてこられた方たちの人生はどの時代に生きた人たちよりも変化にとんだ目まぐるしい時代を過ごされたことだろう。「昔の人の知恵は尊い」とされ大事にされた時代は過ぎ、すべての「知恵」や「経験」はインターネットで検索して見つけられるようになり、いろいろな書類の処理も、社会の手続きもネットで済ます時代となり、機械に慣れていない高齢者には非常に住みにくい社会となっているように感じる。
「私たちは何のために生まれ、何のために生き、なんのために死にゆくのか。」この世に誕生した以上、必ず死はやってくる。成功したと思う人生も、成功しなかったと思える人生も、等しく終わりをつげ、神様の身元に戻っていく。何のために生まれ、何のために生きているのか。そして死が待っているなら、この人生は無意味ではないかと感じるときさえあるだろう。
イエズス会創立者の聖イグナチオ・ロヨラは霊感を受け、霊操の中でいう。「人が存在するのは、すべて主への賛美と奉仕のため」「私たちが持っているものはすべて主が与えてくださったもの」だとすれば、何のために人は努力し、何のために苦労するのか。なんのために?それは神様が、私たちをかけがえのないたった一人の存在として造り、いつもそばで見守り、支え生かしてくださっているから。神の無限の愛を受け止める器として造られたにもかかわらず、悪魔の誘惑や自己中心的な傾きに惑わされ、弱さに傷つき、疲れに嘆き、裏切りに悲しむ人々のために、ご自分の御一人子さえ惜しまずにお与えくださった父の愛があるから。人は出会い、新しい命を生み出し、育て、やがて老い、そして父のもとに旅立っていく。その存在そのものが、存在そのものこそが、最も尊いのである。何をしたか、何をしなかったのか、ではなく、その人が存在し、生き、そして老いてやがて旅立っていく過程の中に神様の愛が豊かに無限に注がれ続けているから、貴いのである。
どんな状況にあってもどうぞ神さまのいつくしみから離れずに心の平和の内に過ごされることを祈っています。
敬老の日、おめでとうございます。そして、ありがとうございます。