教会だより

2025年04月819号

同伴者であるイエス様

【マリノE.デハクトJr.】

両親たちが自分の子供に名前を付ける時、いろいろなことを考えるようになると思います。例えば、子供がこのような人になってほしいので、尊敬する人の名前と同じようにする人もいます。また子供が生まれた時の出来事に基づいて名前を付ける人もいます。あるいは好きな名前があってそれを子供に付けたいという人もいます。宗教で決まっている名前の付け方に従う人も珍しくないです。私の場合はそうだったらしいです。祖母から聞いた話では、父の名前は教会のやり方で名付けられたと聞きました。私も父と同じ名前を付けられています。人生の中でチャレンジは多いですが、よく考えるとなかなかいい名前を選んでもらったなと思います。マリノという単語の文字通りの意味は「船で旅をする人」となっています。両親は私に名付けた時、旅をしてほしかったのかそれも分かりません。でも今、船で旅をしていないですが頂いた名前の通りに旅人になってしまいした。

私は入会にする前に教区司祭ではなく、宣教師になりたい時期がありました。周りの人たちの影響もあったと思います。生まれた所で宣教修道会が管理している小教区、学校などがあちこちにあるからです。宣教師たちのお陰で自分の召命を気づけられたと思います。その人たちの姿を見ることによって信仰の旅の同伴者がずっといたと感じました。

ある時、司祭召命以外の道を選ぼうと思ったこともありました。しかし、勉強を終わっても仕事をしていた時も心の中で何か足りないと感じていました。この足りないものを見つけるため、修道院に入ることにしました。大変なこともあったのですが、心の中で今まで感じていなかった喜びを見つけることが出来たので、神様の呼びかけに正しく応えていると感じました。

私たちがどんな道を選んでも神様がいつも導いて下さっていることは確かなことです。最初の弟子たちもそうでした。彼らは試練があった時、イエス様から離れてしまう傾向がありました。でも彼らは、神様の恵みに支えられて、特に復活されたイエス様に出会ったことによって、救いを見いだしました。例えば、絶望した二人の弟子たちがエマオの村へ向かっている時に、途中からイエス様が彼らと一緒に歩いてくださいました。復活の日、弟子たちはあちらこちらに行ってしまい、心もばらばらになってしまいました。この二人はご受難のことを理解出来なくてイエス様が十字架に付けられたことによって絶望してしまったのです。イエス様が絶望した人たちや、鈍っている心を持っている人たちなどを助けたがっていらっしゃるということはこの場面で明らかにされました。イエス様は十字架に付けられる前に「メシアは苦しまなければならないし、死んで復活する」と度々おっしゃっていました。しかしこの弟子たちはメシアが十字架によって栄光を得ることを信じたくなかったのです。イエス様は本当に忍耐深く、同伴者として、彼らと一緒に歩いて、全てのことを説明して彼らの心を開いてくださったのです。この時イエス様は弟子たちに改めて宣教の使命をお与えになりました。

 私たちは感謝の祭儀によってイエス様に出会うことが出来ます。最初の弟子たちと同じようにイエス様の証人になるように招かれています。弟子たちは栄光を得られるために受難を乗り越えなければならないことを最初は理解できなかったのです。私たちも日常生活の中で様々な問題があってイエス様のことを忘れてしまう時があります。また大変な状況に出会う時、信仰が揺れてしまうこともあります。しかし、イエス様が最初の弟子たちと同伴者としていらっしゃったように私たちとも、共におられるから大丈夫です。私たちが日々の生活でイエス様に出会う喜びを味わうことができ、いつも共におられていることが希望の源になりますように。 私はこれから戸部教会の皆様と離れることになりますが、心を合わせて一緒に祈ることが出来ると思います。今回は短かったのですが、いつも支えてくださって心から感謝を申し上げます。 

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