2024年12月815号
希望を持って主を待ち望む
【マリノE.デハクトJr.】
十二月になると気持ち的に年末が来たと感じます。これは日常生活の事柄に影響されているからです。でも。教会の暦では十二月が年開けなのです。典礼的に待降節は年の始まり、待降節の第一の主日は十二月の第一の日曜日によく当たるからです。信仰生活に基づいていれば、私たちの年明けは十二月なのです。でもこのことについて気にしていない人たちが多いでしょう。実はイエス様の誕生日によって人類の歴史が変わって、新しい時代が始まっていると私たちは信じています。この重要な出来事は世を待ち望んで希望を置いておきました。イエス様によって人類の未来が明るくなって罪の闇か解放されるからです。神様は全ての人を救いたいのですが、まず私たちが主に心を開くことが必要です。
待降節の意味はメシアの到来への準備だということは、皆さんご存じだと思います。二千年前、ベツレヘムで幼子イエス様が生まれて、救い主の到来が実現しました。しかしこの出来事は過去のこと思い出すというだけではなく、未来に向かっているということでもあります。この時期になると「気を付けて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなた方に分からないからである。」という福音の箇所が読まれます。またイエス様はたとえ話を使ってご自分がどういうふうに戻って来られるのか弟子たちに教えました。主がおっしゃった通り、その時はいつなのか誰にもわかりません。そのために私たちは絶えず準備していなければなりませんが、特に待降節はその準備を思い出す時期なのです。
もちろん私たちが準備しなければならない一番大切なことは、私たちの心の準備です。イエス様をふさわしく迎えることができるために、清い心が必要なのです。そのためにこの一年間を振り返る必要があるでしょう。私たちはキリスト者としてこの一年間の様々な過ち、足りなかったことを思い起こしましょう。祈りの時間とか、ミサにあずかることとか、より良いクリスマスを祝うために神様、周りの人たちと和解することなどです。それらを思い出して、神様の支えを願いながら、これからは改める努力をしましょう。主の誕生が、人々が思いがけない時に起きたように、主が再び来られる時も同じように思いもかけない時かもしれません。私たちは日常生活の不安と忙しさのためその準備を忘れてしまう時があると思いますが、イエス様をふさわしく迎えることができるようにいつも準備するべきです。主を迎える熱意は私たちの心の中にいつもありますが、たびたびその熱意を燃える上がらせることは大切です。もちろん私たちの方からの努力も大事です。クリスマスは正しく過ごせば真の平和、和解などが生じます。
現代社会は人間による災いがあちこちで起こっています。この問題に対して私たちは自分の無力さを感じていると思います。ニュースを見ると暴力で苦しんでいる人たちはたくさんいます。戦争のため年齢を問わずに被害者が出ています。この問題について解決の方法が幾つかありますが、イエス様の教えに従うことが一つの選択です。でも問題は、人間の心が固く閉じていて、なかなか神様の教えに開かないことです。もし私たちはイエス様が教えてくださった愛し方を実践すれば、人間関係の問題、社会問題などを解決することができるようになるでしょう。待降節は希望の時期だと言われています。今、環境問題、天災、戦争という危機が世界の中で起こっています。私たちはこの危機のため直接に影響を受けていないかもしれませんが、被害を受けている人たちのために祈ることも大事です。大変な状況で生きている方々が希望の源であるイエス様を迎えられることを祈りましょう。