教会だより

2024年07月810号

永遠の命

【ラジュ・アントニー】

わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。―ヨハネ10.10

アペレスという、紀元前4世紀に生きたギリシャの画家がいました。彼は並外れた才能の持ち主で、自分の絵画を完璧に仕上げることに常に注意を払っていました。このため、彼は自分の絵画に何度も何度も磨きをかけていました。あるとき、彼が自分の絵画の一つに磨きをかけていると、ある男が彼に尋ねました。「なぜあなたは、自分の絵画に、そんなに何度も磨きをかけるのですか?」彼は答えました。「私は永遠のために絵を描いているからです」。アペレスは、彼の作品の独自性がいつまでも永続することを願った芸術家でした。同様に、彼は自分の作品が常に認められることも望んでいました。ですから、彼はいとうことなく非常に注意深く絵を描いたのでした。

私たちは皆、永遠の命を望んでいます。そして、その私たちの永遠の命が最も幸福な状態となることを望んでいます。しかしながら私たちにとって大切なことは、そのために今私たちが何をしているのかということです。永遠の命にまなざしを向けながら、その幸いを確かなものとするために、今私たちが何をしているのかを考えてみるのは良いことです。私たちの日々の生活を幸せで有意義なものにするために、私たちは何をするのでしょうか?この世における生活を安全で安心なものにしていくためなら、私たちは、どんな困難でも耐えていこうとするのかもしれません。非常に多くの人々が、自分の家や国を離れ、他国へ行き、そこで言語を学び、生計を立てるために一生懸命働いています。これは称賛すべきことです。

このように、この世の短い生涯を確かなものとするためなら、私たちはどんな困難をもいとわないのに、私たちの多くは、永遠の幸福を確かなものとすることについて、ほとんど関心を示していないようです。永遠についてあえて話をしたいとは思っている人は少ないです。永遠の命には気を留めず、死すべき命のことばかりに心を配る人間とは、一体何者でしょう?普通には、それが賢いこととされています。しかし、その知的な優秀さを、私たちは高く評価できるものでしょうか?

かつて、ある若い学者が、霊的な事柄について、霊的な教師に話をしに来たことがありました。会話の中で、若い学者は教師に尋ねました。「あなたが考えておられるような天国や地獄が、仮に存在しないとしたら、どうでしょう。そのとき、あなたがどのような立場に置かれることになるのか想像できますでしょうか?」すると、修道士であるその教師は若者に言いました。「あなたの言われるように天国も地獄も存在しないとしたら、私の境遇は惨めなものに思われるかもしれません。しかし仮に天国、地獄、そして永遠が、疑いようもなくあなたの目の前に現れ出たとしたら、あなたの立場はどうなることでしょうか?」

私たちが目を閉じたからといって、光が消えるわけではありません。同様に、私たちが永遠は存在しないと言ったからといって、永遠がなくなるわけではありません。忘れずにいましょう。私たちの命は、永遠へと導き入れられなければならないものです。その方向へと、私たちの生活を整えましょう。永遠を見つめて絵を描いたアペレスのように、永遠を目指す人生というキャンバスに色を添えましょう。そうすれば、私たちは、今現在の人生に幸せを感じることができるのです。私たちの、永遠への参加が有意義な形で行われるように、それを確実なものにしていくことは、私たちの責任です。

キリストに真に従う者として、私たちは常に、至聖なる三位一体の神との一致を目指すべきでしょう。それこそが私たちの永遠の命であるからです。この一致を保つ最善の方法は、私たち一人ひとりとイエス・キリストとのパーソナル(個人的)な関わりです。イエスは「道であり、真理であり、命である」からです。イエス・キリストとのパーソナルな関わりは、教会の秘跡を大切にしこれに相応しく与ること、熱心な祈り、信仰や愛に基づく奉仕などを通して、何度も何度も繰り返し磨きがかけれます。こうして、私たちの永遠の命への参加が確かなものになっていくのではないでしょうか。

永遠へとまなざしを向けながら、私たちの人生の絵を描きましょう。私たちもまた、永遠を見つめながら、私たちの人生の絵に、何度も何度も磨きをかけましょう。

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