教会だより

2020年06月761号

私の信念

アダム・クジャク

最近、新型コロナウィルスのパンデミックで大勢のカトリック信者は日曜日のミサに参加できなくなりました。そのため戸部教会の主任司祭としてとても心配しています。なぜなら洗礼の時に頂いた信仰の火を保つようにするには霊的な薪、すなわちご聖体と神のみ言葉が必要です。魂はこの霊的な糧を頂かなければ信仰の火が消えてしまい、教会に常に来なくてはならないという意識が低くなる可能性が高いからです。永遠の命のパンで魂を養わなければ私たちは弱くなり死後の世界に入ったらどこに行かれるか心配しています。ご聖体についてイエスは言われました「私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私の肉を食べ、私の血を飲むものは、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネ6.51~55)私たちはミサの大事さを知るべきです。ご聖体の大切さをもっと感じるべきです。

前にも少し書いたことがありますが、ポーランドで若者とカヤックで川下りをしながら何日か過ごす夏に起きたことです。毎朝ミサをあげていました。川の所でカヤックを重ね祭壇を作りました。ある日、ミサの準備のため、ギターで歌の練習をしたりしていた時、遠くの森からナイチンゲール(西洋の鶯とも呼ばれる鳥)のきれいな鳴き声が聞こえてきました。そしてミサが始まった時、ナイチンゲールは森から飛んできて一本の松の木に止まり、聖変化の時には、私の頭から30cm位のところの松の木の枝先に止まりました。人を怖がらず近くに寄り、まるで見守って一緒に参加しているようでした。そしてキリストの御体を掲げた時に、カンパヌラ(小鐘)の代わりかと思うほどきれいな声で鳴き始め、キリストの御血のカリスを持ち上げるとまた小鐘の代わりに鳴いて、皆びっくりしました。ミサが終わる時までずっと木に留まっていました。別の日には、今度は湖をバックにミサをあげたその時、白鳥が羽を広げながら舞い降りてきて、まるで天使が降りてきたかのような光景でした。それらの経験した美しさと言ったら自然の中の鳥たちと、私も一緒にいた若者たちも自然の中でのミサで神を賛美し、心よりミサの素晴らしさを言葉では言い表せないほど感じることができました。動物は人間より神の存在を感じているのではないかと思われます。

ご聖体についてカトリック教会のカテキズムの中にはこう書いてあります。

「聖体は、主イエスが、十字架のいけにえをご自分の再臨まで世々に永続させるために制定した、ご自分のからだと血のいけにえそのものです。このようにして、主イエスはご自分の死と復活の記念を教会に託されました。また聖体は、一致のしるし、愛のきずなであり、キリストが拝領され、霊魂は恵みに満たされ、永遠のいのちの保証が与えられる過越しの会食です。」(271)

聖アウグスティヌスはご聖体について「私たちはご聖体を頂くとき、何か食物を食べた時とはちがうことが起きます。普通のパンを食べたら、時間がたつと身体の一部になります。しかし、ご聖体はもっと力強いものですから、あなたを段々とご聖体の本来の姿に変えていきます。」と言われました。

聖トマス・アクィナスは「キリストの受難によって生まれた恵みはご聖体も、全世界のすべての人に同じようにもたらしています。」

リジューの聖テレジアは「ご聖体におけるキリストの御体と御血の存在は、理性と感覚ではなく唯一の信仰で認識できます。人々がご聖体の価値をもっと知ったのなら、教会の入り口は大勢の人で満員になり、警察官たちの誘導が必要となるでしょう。」と語っていました。

聖ヨセフ・カラサンスもミサについて、自分の修道会の若手司祭に助言しました。「ミサが始まる前に、神聖な教会で永遠の父への代表者として、カトリックの信仰を強めると同時に、罪人への咎(トガ)を赦すためだけではなく、亡くなられた人の魂を救うためにも遣わされました。」(手紙 1350)

また若い司祭たちを指導する司祭には、「ミサの時、永遠の父と三位一体とどのように対話すべきか教えてください。ミサの大きな恩恵を頂けるように、慣例に陥らず、偉大な尊敬と謙遜をもって急かずにミサを捧げれば、ことばの典礼の意味を彼らが理解出来るはずです。」(手紙 3369)

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18.20)

ミサの時、イエスの名によって集まりますのでイエスは教会の中で必ずいらっしゃいます。イエス様と一緒にいるなら、恐れることはなく、安全です。

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