教会だより

2023年09月800号

神の御心にかなう祈り方

【ラジュ・アントニー】

神の子供として、私たちには父なる神に何でも求める権利があります。私たちは相続人だからです。それは洗礼の恵みです。但し神は、私たちに害を及ぼすものを与えることを望んではおられません。ですから、神が聞き入れて下さらない祈りもたくさんあります。神は私たちが何を望んでいるのか、そして何が私たちにとって良いものなのかを、私たちよりもよくご存じだからです。しかし、しつこくせがむように願い求める、頑固な人たちもいるでしょう。そういうとき、神は仕方なく、その人が求めるものを、最後には与えて下さることもあります。それは、その人に学んで欲しいと望んでおられるからです。
そのような出来事の一つが、サムエル記上8章に見られます。旧約のイスラエルの民は、神が地上で最も愛された人々でした。アブラハムを通して約束された祝福をいただいた民でした。ですから、神はいつも彼らに善がもたらされることを望んでおられました。しかし、サムエルが年をとると、息子のヨエルとアビヤを後継者(裁きを行う者)として任命しました。しかし、彼らは父親のように義人ではありませんでした。不正な利益を得ていたからです。そこでイスラエルの長老たちは、「我々のために裁きを行う王を立ててください」 とサムエルに申し入れました。その言い分は、神とサムエルの目には、悪と映りました。イスラエルの民は彼らを支配する王の意志に服従し、神を忘れ、他の神々を崇拝しなければならなくなるからです。「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」(サムエル記上 8.17-18)。それで神は彼らにサウルを王として与えました。イスラエルのその後の苦しみは、後続の聖書の中に描かれています。あの時から、イスラエルの人々は王の権威の奴隷になりました。彼らは真の神を忘れて、他の神々を崇拝し始めました。その結果、彼らはまた、当時の強力な異邦人の王たちの奴隷になりました。彼らはシリア、バビロン、ローマなどの国の奴隷になりました。
神の御心にかなう祈りだけが私たちの祝福になります。しかし、祈りがかなえられない場合でも、がっかりしないでください。「心を探り、そのはらわたを究めるのは主なる私である。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる」(エレミヤ17.10)。神に相談せず、神の御心を探し求めずに自分で決めてしまうようなときには、うまくいかないかもしれません。
「災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀を立てるがわたしによるのではない。盟約の杯を交わすがわたしの霊によるのではない。こうして、罪に罪を重ねている。彼らはわたしの託宣を求めずエジプトへ下って行きファラオの砦に難を避けエジプトの陰に身を寄せる。しかし、ファラオの砦はお前たちの恥となりエジプトの陰に身を寄せることは辱めとなる。」(イザヤ30.1-3) 。
私たちが神の御心に従って生き、邪悪な欲望から遠ざかり、多くの物質的な利益への執着を手放すなら、神の恵みは私たちに流れます。そうすれば、私たちは神に耳を傾けることができるでしょう。「わが主はあなたたちに災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方はもはや隠れておられることなくあなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け右に行け、左に行け』と」(イザヤ30.20-21)。
主は効果的な祈りとはどうあるべきかを教えておられます。「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」(マルコ11.24-25)。「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません」(ヤコブ1.6-7)。
神は、私たちに良いものを与えたいと望んでおられます。ですから、祈ってもかなえてくださらないことに絶望しないでください。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ4.3)。

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