教会だより

2022年03月782号

教会の一致と交わり(コムニオ)

アダム・クジャク】

「•••あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(エフェソ2:19-22)

キリストの体である「教会は、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、そして同一の希望のもとに一つの「霊」(聖霊)によって生かされる一つの体であるからです。この希望がかなえられたとき、分裂はすべてなくなるでしょう。」(『カトリックの教え』から)

聖書とカテキズムは、カトリック教会の基本的な特徴は祈りと働きを通して多様性から一致を築くことであると教えています。

日本はここ何十年の間に様々な国から、働く為、又は研究の為、あるいは日本語、仕事の勉強の為に大勢の人たちが来日しています。街中でも駅や案内など多言語で対応し、観光客にも在日外国人にとっても国際的な開かれた日本となりました。教会のミサも様々な言葉(英語、スペイン語、ベトナム語、その他)で捧げられています。自国語の典礼も懐かしいですし、しっくりとするでしょう。しかしこれに慣れてしまい、「今日はここに英語のミサがある。来週は山手で、再来週はイグナチオで何何語のミサがある」と転々とするとします。そうするとあなたの教会はどこですか?あなたが行っている教会の友だちが出来ましたか?奉仕ができますか?一致していますか?

残念ながら同じ教会に通っているにも関わらず、日本語のミサに参加している信徒は、外国語のミサに通っている人たちを知らないという状況があります。2008年に出されている横浜教区の外国籍信徒司牧の基本方針及び秘跡等に関する司牧指針にも書いてあるように、教会の一致と交わりを目指すために日本語のミサに参加することが望ましいです。

私は主日のミサの中で、留学生たちが(日本語を学ぶ意味もあるのでしょう)日本語のミサに通って来ているのを見かけます。分からない時は、日本人のお婆さんがここですよと教えてあげたり、今度は学生がお年寄りの聖歌集を片付けている姿を見ると同じ教会に通っている信者同士の心の通っている姿にほっとします。中には、日本人と結婚をして洗礼証明書を自国から取り寄せ、台帳を作っている信者も居ますが、外国人のほとんどが台帳を持たない、籍がないという信者が多いです。教会に対して責任を感じず、国際共同体を構築することに興味がなければ、交わりができないので共同体の絆が建てられません。ミサの中の第二奉献文で「キリストの御体と御血にともにあずかる私たちが聖霊によって一つに結ばれますように。」と唱えていますが、どうでしょうか。

私は自分の言語で祈る必要性は分かりますが、一年に一回位で十分ではありませんか?そして日本の公式典礼言語での一緒の祈りと宣教活動を通して、国際的な共同体を築く事の方がより重要ではないでしょうか。

デジタルの時代、自分のスマートフォンやタブレットを持っていれば日本語がまだ理解出来ない外国人にとって、日本語のミサに参加するのは難しいことではありません。なぜなら携帯電話で自分の言語で朗読箇所を読むことが出来ます。外国人と日本人の信者は一緒に、そして同じミサで祈ることが出来ない限り段々分裂を起こすのではないか心配しています。そして小教区の中で、教会を単に自分の目的を果たすことが使命と思って使う人と、自分の教会に籍を置き教会を維持していく責任を持っている人とに分かれてしまいます。 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(第二コリント13:13)

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