教会だより

2021年01月768号

幼な子のように

アダム・クジャク

カトリックの典礼では待降節が始まる所から新しい年(今年はB年)が始まっています。さて毎年迎えているクリスマスで皆さんは何故イエスが赤ちゃんの姿でこの世に来られたかの神秘を考えた事がありますか。

イエスは幼な子のようにならなければ、天国に入ることができないと言われました(マタイ18:3)。イエスは子供の姿で聖ファウスティナの前に何回も現れました。彼女の日記の中に現れているイエスの姿を読みながら黙想してみましょう。

イエスを自分の心に受け取ることは聖ファウスティナには単なる比喩ではありませんでした。イエスはいつも私たちと共にいらっしゃることを約束されました。「羊飼(夜半)のミサ。ミサ聖祭中に、非常に美しく、嬉しそうに御自分の小さな両手をわたしに差し伸べていらっしゃる、可愛い幼子イエスを再び見ました。聖体拝領後、この言葉を聞きました。「わたしはいつもあなたの心の中にいる。聖体拝領においてわたしを受ける時だけでなく、いつも。」大きな喜びの内にこの降誕節を過ごしました。」(日記575)

聖ファウスティナはまた、幼子イエスが人間の受け取ることの出来る最高の贈り物であることを知っていました。イエスは最初の瞬間から私たちの手に渡されていました。

「至聖なる母マリアは「私の最愛の宝を受けなさい」と言って、幼子イエスを手渡されました。わたしの両腕に幼子イエスを抱くと、神の母と聖ヨセフは見えなくなりました。わたしだけが幼子イエスと一緒に残されました。」(日記608)

最も美しいビジョンは、聖ファウスティナがミサの中で司祭の聖体拝領の時に頂きました

「ミサ聖祭中に度々幼子イエスを見ます。幼子は極めて美しく、一歳くらいに見えます。かつて、わたしたちの聖堂でのミサ中に、同じ幼子を見たとき、祭壇に近づいて幼子イエスを抱きしめたいという激しい望みと抵抗できないほどの憧れに捕らえられました。その瞬間、幼子イエスはわたしの隣のひざまずき台のそばに立って、小さな両手をわたしの肩に載せられました。恵みと喜びに満ちておられ、深い洞察力をもった、すべてを見通すような眼差し。しかし、司祭が御聖体を裂いたとき、イエスは祭壇に立っておられ、司祭によって裂かれて食べられました。」(日記434)

他の箇所では聖ファウスティナは、主イエスが聖変化の時に子供のような純粋さで司祭とどのように密接に関連しているかを説明しました。

「かつて、わたしの聴罪司祭〔ソポチコ神父〕がミサを献げていたとき、いつものように、奉献の時から幼子イエスを祭壇上に見ました。しかし、奉挙の直前に、司祭がわたしの視界から消え、イエスだけが留まっておられました。奉挙の瞬間が来ると、イエスは小さな両手に御聖体と聖杯を取り、天を仰ぎながら、それらを一緒に挙げられました。一瞬後に、再び聴罪司祭を見ました。わたしが司祭を見失っていた間、彼はどこにいたのですかと、幼子イエスに尋ねました。イエスはお答えになりました。「わたしの心の中に。」しかし、イエスのこの御言葉についてそれ以上何も理解できませんでした。」(日記442)

イエス・キリストは完全に人間の手に渡されました。幼子イエスは同時に十字架につけられた救い主です。聖ファウスティナが頂いたビジョンを通して恵は全人類のためです。

「大聖堂の中で、幼子を腕に抱いておられる神の母を見ました。すると一瞬後に、幼子イエスは神の母の腕から消え、十字架に磔られたイエスの生きている御姿を見ました。神の母は、彼女が行ったことを行いなさいと言われました。すなわち、喜びに満ちている時でさえ、常に十字架を見つめているべきであると。そして、神がわたしに与えていらっしゃる恵みはわたしのためだけではなく、他の霊魂たちのためでもある、と言われました。」(日記561)

上記のすべての箇所の中で救い主の人間への非常に多大な愛が感じられます。彼は人間の形で私たちのところに来られ、可能な限り人間の惨めさを経験したかったのです。「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで。」(フィリピ2:7)イエス様は現代も私たちに仕えたいと望んでおられます。

新しい年が神様の豊かな恵みで満たされますように、毎日ミサの中でお祈りしております。

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