教会だより

2024年03月806号

四旬節黙想 十字架に見られる復活の希望

【ラジュ・アントニー】

子供の頃に、母から言われた言葉を今でも覚えています。それは家族で夕の祈りを捧げた後のことでした。母は祈りながら十字架を見つめていました。そして私にこう言ったのでした。「十字架上で生きることを学びなさい」と。その当時、私はその言葉の深い意味を理解することができませんでした。それから、復活徹夜祭の真夜中のミサを終えて帰宅する途中で、私は母に尋ねたことがありました。「お母さん、十字架上で生きるって、どうしたらできるの?」

その日、母から告げられたその返事を、私は今も心に留めています。「十字架上で生きるとは、人生の危機的状況の中で悟ることです。自分の苦しみをキリストの受難と比べてみれば、自分の苦しみや悲しみは取るに足らないものであることに気づくでしょう。あらゆる悲しみや苦しみを越えて、復活の希望があると悟ることです」。

私は、母の言葉を心の中で黙想しました。そして、あらゆる挫折の先には復活の勝利があるという確信をもつことができるようになりました。人生の危機の真っ只中でキリストは復活する。それは多くの希望を与えてくれます。

イエスが33歳で十字架にかけられたとき、この世的な意味では完全な敗北者でした。強盗と同様に扱われ、取り囲む人々の視線にさらされながら、ゴルゴタの丘へと連行され、極悪な刑罰として、嘲(あざけ)りの象徴である十字架にかけられました。しかしご復活によって、復活の主日に勝利の冠にまで引き上げられました。すべての人を支配していた死にも打ち勝ち、勝利の栄冠を手にされました。嘲(あざけ)りの象徴であった木の十字架は、イエスのご復活によって救いのしるしとなったのです。

生きている中でつまずきを感じたとき、十字架を見つめましょう。主のご復活の力が、そこで再び、あなたを励まして下さいます。十字架に目を向けるときにこそ、失敗や悲しみに揺るぐことなく、前に進むことができるのです。十字架を見つめると、そこに勝利の復活が見えるでしょう。挫折の向こうに、勝利が立ち上るのを見出すことができます。足の不自由な男が、再びまっすぐに立つのを目にすることができます。打ち砕かれた体が再び強さを取り戻していくのがわかります…。

槍に刺し貫かれたイエスのみ心が、再び愛に燃えています。ゴルゴタの丘で流された血が再び命の源となっています。釘で打ち付けられた手と足が再びあなたを探しに来ておられます。十字架に目を向ければ、そこに復活の希望が見えてくるのです。そして、失敗に落ち込むことなく再び立ち上がることができます。

四旬節中の金曜日に、聖体拝領の後、十字架の前で次の祈りを唱えることは、教会が定めた全免償を受けることのできる信心業の一つです。[尚、全免償のための通常の条件も満たす必要があります。=大罪がなく(成聖の恩恵の状態)、どんな小さな罪をも退ける決心と、全免償を受けたいとの望みを持った上で、①ゆるしの秘跡、②聖体拝領、③教皇の意向のための祈り(主の祈り・アヴェマリアの祈り1回ずつ等)]※「免償は、罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるし」(『カトリック教会のカテキズム』1471)。

いつくしみ深く最も柔和なるイエスよ、私は御前にひざまずき、私の罪に対する痛悔と回心への確固たる決意をもって、魂の燃えるように切なる願いとして、あなたに祈り求めます。生き生きとした信仰・希望・愛徳の心を、私の胸に刻みつけて下さい。あなたを慕う深い想いと魂の悲しみのうちに、あなたの最も尊い五つの傷を思い巡らし、心の中で観想します。ダビデがあなたご自身について預言した言葉を、私は目の前に見ているのです。おお善良なるイエスよ。―「彼らはわたしの手と足を刺し貫いた。わたしは骨がすべて数えられるほどにされた」。

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