教会だより

2025年03月818号

四旬節における断食と祈りの関係

【ラジュ・アントニー】

断食と祈りは、四旬節中に行われる2つの基本的な務めです。その2つは、目的と霊的な重要性という点で、互いに深く関連し合っています。悔い改めと刷新、そして神とのより親しい関わりへ向けて歩むキリスト者の旅路には、そのどちらもが、不可欠の要素です。教会の教えに基づきながら、四旬節という文脈において、断食と祈りがどのように関係しているかを見ていきましょう。

四旬節中の断食は、単なる自己否定的な行為ではありません。それは、内的な清めや、神とのより深い関わりを促進するための霊的な訓練です。聖ヨハネ・パウロ二世教皇が強調されたことですが、断食には内的な変化を望む正直な気持ちと、神のみ旨に従う心構えが伴わなければなりません(ヨハネ・パウロ二世教皇2003年3月5日灰の水曜日一般謁見演説)。同様に、祈りとは信者の力であり、神と交わり、その導きと支えを求める手段であると説明されています。

断食は、祈りの心を整えます。黙想のためのスペースを心に作り出し、神の現存に対して開かれた心をもつことによってです。フランシスコ教皇が指摘されたように、断食は単なる形式的な行為に過ぎないものであってはなりません。それは、自分の安全を脅かしながら、他人の必要には深く気づけるように導いてくれます (フランシスコ教皇2014 年 3 月 5 日灰の水曜日ミサ説教)。このように意識が高められることで、祈りの質を高めることができます。祈りはより誠実なものとなり、他者のため、特に苦しんでいる人々や困窮している人々のための執り成しに集中できるようになるのです。

断食と祈りは相互に関連し合っています。断食によって、祈りの効果を高めることができます。聖ヨハネ・パウロ二世教皇が明言されたことですが、断食は、感覚機能に関わる苦行であり、より大きな効果を祈りにもたらし、人が神のみ旨にもっと調和していくのを助けます(聖ヨハネ・パウロ二世教皇1979年3月21日一般謁見演説)。断食をすると、その自己否定的な行為により、謙遜の意識が強まり、もっと神に依り頼むようになります。そして、祈りはより深く、より影響力のあるものとなります。

断食それ自体が、祈りの一形態だとみなすことができます。それは神への憧れと、自分の人生を神のみ旨に一致させたいという望みを表現します。この意味で断食は、神に対する信者の献身を表明する礼拝行為です。ベネディクト十六世教皇が強調されたことですが、断食は肉体や美に関わる理由によって動機付けられるものではなく、効果的な祈りに不可欠な内的清めの必要から生じるものです(ベネディクト十六世教皇2007年2月21日灰の水曜日)。四旬節中、断食を実践することにより、祈りが増進されることがよくあります。それは、より頻繁な個人的な祈りや、共同の礼拝、または四旬節特有の信心などの形で現れてきます。四旬節中の断食と祈りは、どちらも愛徳の業や施しと密接に関連しています。このつながりがはっきりと示しているのは、祈りと断食が、他者に対する神の愛や憐れみの反映である具体的な行動と一つになっていることの大切さです。断食し祈りながら愛徳の業を行うことは、信仰の共同体的な側面と、困っている人々のための奉仕への呼びかけを強めます。

断食と祈りは、四旬節を体験するには不可欠のものです。霊的な成長と刷新を求める上で、それらは互いに高め合います。断食は祈りの心を整え、祈りをより誠実で効果的なものにします。そして祈りは断食の意味と目的を深めます。これらが合わさって四旬節への総合的なアプローチとなります。それは、悔い改めと振り返り、他者への奉仕という変革の旅路に信者を招きます。キリスト者は、これらの実践を通して、神により近づき、この世において神の愛を具体的な形で現すよう呼ばれているのです。

教会だよりのアーカイブ

TOP