教会だより

2025年02月817号

主の奉献:洗礼の約束と殉教についての黙想

【ラジュ・アントニー】

カトリック教会では、2月2日に主の奉献の祝日を祝います。その日は、聖ヨハネ・パウロ二世教皇によって制定された世界奉献生活の日でもあります。日本のカトリック教会ではさらに、2月3日に福者ユスト高山右近殉教者の記念日、そして2月5日に日本26聖人殉教者の祝日を祝います。こうしたことから、神殿における主の奉献に関連して、洗礼の約束と殉教について考えてみることは、ちょうどよい時機であるように思います。

主の奉献は、教会生活の中で、また私たち信者一人ひとりにとって、深い意味を持っています。この祝日は、モーセの律法の成就を記念するだけでなく、洗礼の約束と殉教というテーマをつなげる、極めて重要な場面でもあるのです。マリアとヨセフが神殿でイエスを奉献したとき、彼らは従順と忠実さを具体的に表現し、洗礼の約束を生きる模範を、すべてのキリスト者に示しました。さらに、シメオンとアンナが幼子イエスを目にして救い主として認め、神をたたえた出来事は、殉教への召命を含め、信仰生活に伴って生ずる犠牲を前もって示しています。

神殿においてイエスが奉献された出来事は、ルカ福音書(2:22-40)が伝えています。マリアとヨセフは、モーセの律法に従い、初子である息子を連れて来て主に捧げます。この従順な行為はユダヤ教の伝統に深く根ざしたもので、初めて生まれる男の子を神に捧げることや、出産後に母親が清めの儀式を受けることが、両親に求められていました。この奉献をもって、神ご自身が、その御ひとり子を人類に差し出されます。シメオンとアンナの預言的な言葉は、そのことを表しています。二人は、イエスこそ、民が待ち望んでいた救い主であると認めることができたのです。この神殿での出会いにおいて、神の約束の成就と、いつくしみ深く忠実な僕であるイエスの使命の始まりが、明らかに示されています。

主の奉献についてじっくり考えることで、私たちは、洗礼において自ら宣言した約束をよく思い起こすことができます。洗礼の約束の更新によって、私たちは神とのつながりを確認し、神のみ旨に従って生きることを誓います。聖ヨハネ・パウロ二世教皇は、私たちが信仰に忠実であるためには、祈りだけでなく、神の掟に従った行動が必要であることを強調しました。イエスの奉献が象徴しているのは、私たちが日々の生活において福音の価値を具体的に生きようと努めながら、罪を退け聖なる生涯を送る、という私たちの約束です(ヨハネ・パウロ二世教皇のミサ説教より。1982年5月29日英国ロンドン・ウェンブリにおける洗礼の約束更新のためのミサ)。主の奉献と洗礼の約束とのこうしたつながりは、私たちが、誠実さと目的をもって、いかに自らの信仰を生きることができるのかを、思い巡らすよう招いています。

シメオンとアンナが幼子イエスを救い主と認めた場面において、殉教というテーマも明らかとなります。殉教はキリスト者の旅路には必須のものです。シメオンの預言は、イエスが「反対を受けるしるし」となることを明らかにし、イエスに従う者たちが直面することになる試練や犠牲を前もって示しています。殉教は、その本質において、信仰の究極の証しであり、多くの場合、キリストのために命を差し出すことが要求されます。このように、神殿における主の奉献は、私たちがイエスに従おうと努力する中で直面する試練の前兆となり、忠実であることには大きな代償を伴う可能性のあることを、私たちに思い起こさせるのです。

主の奉献、洗礼の約束、殉教というテーマは、単に歴史上の出来事というだけでなく、現代のキリスト者にも深く関わるものです。私たちは、現代のキリスト者固有の献身や、私たち自身が信仰の旅路において求められる犠牲について、深く考えるよう呼ばれています。これは、つまり、社会的圧力の只中において信仰を堅持することや、奉仕活動に従事すること、あるいは福音のために迫害されることをさえ意味するものかもしれません。主の奉献の精神を受け入れることで、キリストとのより深い関わりを育み、教会内での私たちの役割をより深く理解することができます。

主の奉献は、聖母マリアと聖ヨセフの模範に倣いながら、勇気と誠実さをもって、自らの信仰を生きる決意を新たにするよう私たちを招きます。この大切な場面を振り返りつつ、私たちは、私たちの旅には従順の喜びと犠牲の試練の両方が伴うことを認め、私たちの信仰とキリストへの献身を深めるよう励まされます。私たちが、揺るぎない忠実さをもって私たちの洗礼の約束を生き抜くことができるよう、誠実なる聖母マリアが、すべての人を導き元気づけて下さいますように。

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