教会だより

2024年09月812号

主とつながっていて下さい!

【ラジュ・アントニー】

 最近、教皇フランシスコの使徒的勧告『キリストは生きている』を読みました。これは、2018年10月に開催された、若者をテーマとするシノドス(世界代表司教会議)を受けて公布されたものです。以下の文章は、この使徒的勧告のいくつかのポイントをもとにした省察です。

 皆さん、私たちはインターネット環境に常に気を配り、その接続が失われることのないよういつも注意を払っています。これと同じように、いつも主につながっているように留意して下さい。そのために、発想を転換していくことが大いに役立ちます。コミュニケーションとは、情報を与え、受け取り、共有するプロセスです。言い換えるなら、それは話すこと、書くこと、聞くこと、そして読むことでもあります。コミュニケーションが上手な人は、注意深く聴き、異なる意見を尊重します。

 今日私たちは、他者に話しかけ、理解し合うための、多くの伝達手段を手にしています。私たちが生きているこの世界では、いつ、どこでも、誰にでも話しかけることができるのです。そのために、インターネットやソーシャルメディアは、私たちにもっと大きな影響を与えています。ある意味で、このようなテクノロジーが、男であれ女であれ、現代の人々を突き動かし、コントロールさえしているのです。現代の人々、とりわけ若い世代は、言うまでもなく、このようなテクノロジーなしに生きていくことはできません。教皇は、こうした状況を例にあげながら、私たちに神と関わることを強く勧めておられます。神は決して、私たちから離れ去ることがないからです。「神さまなしには生きられない」というくらいにまで、私たちの生活を変えていかなければならないのです。

 そのためには、神とのパーソナルな(個人的な・人格的な)関わりが必要となります。どうしたら、神とのパーソナルな関わりをもつことができるでしょうか? たとえば、私たちが熱心に神に帰依する、それが私たちと神との関わり方でしょうか?  あるいは、神は私たちの支配者で、私たちはその召し使いなのでしょうか?  それとも、神は与える者であり、私たちはただそれを受け取る人たちなのでしょうか? あるいはまた、神は偉大な力であり、私たちはただその力に依存する弱者なのでしょうか?  ――もし、神との関わり方がこのようなものであるなら、私たちは、神との間に自由な関わりを築くことはできません。大事なのは、思い巡らすことです。フランシスコ教皇は、私たちはいつも神に話しかけ、いつも神に聴かなければならない、と言われます。ではどのようにしたら、神に話しかけ続けることができるのでしょうか?

 神は常に私たちに話しかけており、またいつも私たちのことを聴いています。もし私たちの生活の中で一瞬でも神が不在のときがあるとしたら、私たちの方こそ存在することができないでしょう。神は私たちに耳を傾け、私たちが寝ているときも目覚めているときも聴いているのです。そのような多くの例が、旧約聖書や新約聖書に記されています。サムエル記上には、ハンナが祈りの中で神に願う話があります。ハンナは、彼女の悲しみをすべて神に打ち明け、男の子を授かるように祈ります。神は、ハンナの苦悩に耳を傾け、サムエルという名の男の子を彼女に与えました(サムエル記上1.11)。サムエルもまた、神の声を聴くことになります。主の神殿で寝るようになってから、少年サムエルは神の声に起こされました。祭司エリは、それが神の声であると悟り、もしまた呼びかけられたら「主よ、お話しください。僕は聞いております」と答え、神に聴くように教えます(サムエル記上3.1-11)。このサムエルの返事と同様の態度が、私たちにも必要です。私たちは、進んで神に聴き、喜んで神に応えたいと望んでいるとき、神とのパーソナルな関わりをもつことができるのです。

 聖書の中には、神が預言者たちに話しかけ、預言者たちもまた神に話しかける場面があります。預言者たちには、すべてを神に打ち明ける自由さがありました。重大な事柄について話すこともあれば、神に不服を申し立てることもありました。心にあることは何でも、友だちやお父さんやお母さんに話しかけるように、神に打ち明けました。新約聖書には、神がサウロに話しかける場面があります。サウロ自身、神がともにおられることに気づいていないときでさえ、神はサウロとともに旅をしていました。サウロが教会を迫害するための旅に出ているときにも、神はサウロとともにおられました。神は、相応しい時と場において、独特な方法をもってサウロに話しかけます。「なぜ、わたしを迫害するのか」と神は問いかけます。サウロが「主よ、あなたはどなたですか」と聞き返すと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えがありました。このように、神はいつでも人の生活の中におられます。私たちが、進んで神に聴き、喜んで神の言葉に応えようと望んでいるなら、神と私たちとの関わりは、私たち自身の成熟へ向かう旅になるでしょう。それによって私たちは、奇跡と思えるような、神のみわざを目にし、それに気づくことができるようになるでしょう。そのとき私たちも、聖パウロのように「キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2.20)と言うことができるのです。

教会だよりのアーカイブ

TOP