2025年10月825号
ロザリオを通して聖母は導く
【ヨハネ渡辺彰彦(教会委員長)】
ある友人が参加してくれたときのことでした。友人はプロテスタントのキリスト者です。幼いお孫さんに難病が見つかったとのこと。友人曰く、「私たちは、マリアさまもヨセフさまも、よく知らないんです。祈りは自分の言葉で唱えます。でも長々と祈っているうちに、気がつくと、祈りが愚痴になっていることがあるんですね。そして本当につらい時・苦しい時、言葉が出ません。そういう時、ただ『聖マリア、私たちのためにお祈り下さい』って言うしかないんです…」。
この正直なお話に、私は大変驚きました。誰にでも愚痴を言いたくなるようなことはあるでしょう。そういうとき、私たちも「祈りが愚痴になる」ことがあるでしょうか?素直にロザリオを祈り、聖母の心を通して、イエスさまの生涯を黙想する限り、それが「愚痴になる余地はない」と私は思います。つまり、ロザリオを通して、聖母は私たちの祈り方を導き「霊的指導」をされておられるのだと、改めて気づきました。
もしかしたら友人は、お孫さんの病気に関して湧き起る自分の強い感情(悲しみ・落胆・悲哀あるいは怒りなど)を、祈りの中で、ありのままに神さまにお伝えするのが難しかったのかもしれません。「どうして?どうして?」という不本意さが募り、つい口からこぼれた言葉が愚痴になってしまったのでしょう。でもそのことに自分で気づくなんて、何と素晴らしいことでしょうか。熱心に祈る友人を、聖母がこのように導いておられることも喜ばしい驚きでした。
申し上げるまでもなく、聖母は誰よりも痛みを知っておられる方です。私たちの胸の内にある難しさを、ありのままに聖母に打ち明けて、いつくしみの御子イエスへの執り成しを願い、愛そのものである父なる神の恵みと計らいに委ねましょう。
「神という神秘との対話」という意味で、祈りは神秘です。100人いれば100通りの祈りがあるといわれます。カトリック信者でも、ロザリオの「繰り返しが苦手」という方がおられるのを、耳にしたことがあります。私が出会った、ある祈りの本では、ロザリオは自由なものであり、定型の形式を厳格に考える必要はないと教えています。そして、イエスの生涯をよく黙想するように勧めています(“A New Catholic Prayer Book” by Michael Hollings) 。聖ヨハネ・パウロ二世教皇も、ロザリオは「キリスト教的観想の伝統の中でもっともすぐれたもの」「典型的な黙想の祈り」である点を強調されています(使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』5項)。これにならって、「~聖母マリアとともに祈る~家族のための祈りの集い」では、「聖書で祈る」観想的なロザリオをお捧げしつつ、聖母の導きを祈り求めています。宜しければお試し下さい。
さて、前記の友人から後日連絡がありました。「もう一度検査したら、孫の難病がなくなっていたんですっ!何か、間違いだったみたいです…」。 賛美と感謝のうちに。♰ Ave Maria