2017年03月722号
ルルドの聖母の記念日 世界病者の日のミサに与り
【高月和子(信徒)】
1858年2月11日にフランスのルルドの近郊のマッサビエルの洞窟で無原罪のマリア様がベルナデッタに初めて現れた。ベルナデッタの一連のマリア出現は、教会当局によって、神聖なものとして承認され、ルルドが国際的な巡礼地となった。現在は病者の日として2月11日に祈られている。今年はこの日に戸部教会でアダム神父様の司式のもとミサが行われ、続いてベネディクションと病者の塗油を授けていただき、素晴らしい式だったので、書き記しておきたかった。
1844年南フランス・ルルドのポリという水車小屋で、長女として生まれた。今でこそルルドは巡礼地として有名だが、当時はフランスとスペインの国境のピレネー山脈の麓にある一寒村にすぎなかった。父の名はフランソワ・スピルーと言い水車場で麦粉を製造、母のルイズ・カステローは勤勉で、きれい好きだった。ベルナデッタはこの家に生まれたが、半年の内に母が2番目の子を宿したので、幼いベルナデッタはバルトレスという隣村の乳母のもとに1年3カ月ほど預けられた。両親のもとにもどった彼女は妹とともに幸福に育てられた。
1858年14才の2月11日に、妹と隣の娘と3人で、近くのガーブ川の岸辺に薪を拾いに行った。ベルナデッタは木靴を脱いで向こう岸に行こうとすると、他の2人はもう川を渡って薪を拾い始めていた。すると突然どこからともなく風がざわめき、天然のマッサビルの洞窟に、不思議な光に包まれた美しい貴婦人が、ベルナデッタの方を向いて立っていた。
白い衣服、青い帯、頭に被った肩まである白いベール。その腕には金の鎖に白い玉のロザリオ。その足元には2輪の黄金のバラ。両目は恍惚として天を仰いでおられた。
14日の日曜日、友達と6人で行った。3回目の出現の時、「15日間、ここに来てください」と言われた。貴婦人は以降7月16日までに計18回出現された。出現の回数が増えるにつれて洞窟のまわりは、黒山の人だかりになった。3月25日、17回目の出現の時、貴婦人にお名前を尋ねると「私は無原罪で宿りました」と答えられました。
□ルルドの現状は、聖母の望み通り3つの聖堂が次々と建立された。①1866年円形地下聖堂 ②洞窟上に1876年(ロザリオ大聖堂)献堂。③1889年無原罪の御宿り建立。
奇跡1903年、ルルドで自分も他の医師も匙を投げた少女の結核性腹膜炎を治された奇跡を、目の当たりにして、その後研究を続けたのは、ノーベル賞を獲得したアレキシス・カレル博士である。今も大勢の人が癒されている。
□ベルナデッタ・スビルーは、ヌヴェールの「愛徳女子修道会」に入り、1879年35歳の若さで亡くなった。1933年に列聖された。彼女の遺体は生きているかのままで安置されている。
□世界病者の日は、ヨハネ・パウロ2世により1992年に制定されたカトリック教会の祭日である。1993年にルルドの女性の日の記念に毎年祝い、全ての信者の為に礼拝と共有や受難の提供の「特別な時」であることを願う日である。
無原罪の御宿り(ラテン語Conceptio immaculate)について アダム・クジャク
1854年12月8日大勅書「イネファビィス・デウス=Ineffabilis Deus」発布
「人類の救い主キリスト・イエズスの功績を考慮して、処女マリアは、全能の神の特別な恩恵と特典によって、その懐胎の最初の瞬間において、原罪の全ての汚れから、前もって保護されていた」という教理を「神から啓示されていたもの」として宣言した。しかしプロテスタントは、聖書に書かれていない説と反対の意を表明していた。 その4年後のルルドのマリア様の出現の時、信じられなかった司祭に名前を聞いてくるように彼女は言われました。そしてラテン語など学んでいないベルナデッタにマリア様が「私はインマクラータ=無原罪で宿った」とお答えになり、彼女は忘れないように繰り返し言いながら、司祭のもとに知らせに行きました。その出現時にマリア様が無原罪という言葉を使われたことで4年前の教義が強調されたのです。