教会だより

2020年04月759号

ご復活おめでとうございます

アダム・クジャク

3月4日(水)にロレンソ・エランドネア神父様が亡くなり、11日に葬儀が行われました。その時にエスコラピオス会の管区長アルトラ神父様(Fr.Artola Otamendi)が書かれたメッセージの要約を掲載させて頂きます。
ロレンソ神父様は、スペインの北部ナヴァラ地方にあるヴェラ・デ・ビダソアという小さな街に、ご両親マヌエルとエミリアの間に4人姉妹、2人兄弟の末っ子として、農家の家で生まれ、育ちました。そして、生後2日目に洗礼を授かりました。8歳の時にスペインで内戦が起こり、戦後も厳しく苦しい大変な状況の下で育ちました。ロレンソ神父様は、地元のエスコラピオス修道会の学校に通っており、幼いときから勉学に励み、強い信仰生活を送っていました。そして12歳の時に神様からの「招き」があり、オレンダインのエスコラピオス会の小神学校に入りました。ロレンソ神父様の修練長は、後に日本で出会うフェリチアノ・ペレス神父様でした。1951年4月に終生誓願をたて、5月に司祭叙階されました。神父様のエスコラピオス会の修道者としての最初の職務は、パンプローナにある小学校の教師でした。1952年に、管区長より日本への派遣を告げられ、1953年の夏に来日して、2年間日本語を勉強し、1955年の夏、英語を習得するため渡米、そして、1957年2月に日本に帰国し、日本の宣教活動の創設者であり、当時戸部教会の主任司祭を勤めていらしたフェリチアノ・ペレス神父様のもとに、助任司祭として就任しました。
1959年1月、四日市の海星学園に移動となり、英語と宗教を教えていました。1964年に、再度戸部教会の主任司祭として戻り10年間勤めました。
それ以降、度重なる移動がありました。1974年に四日市。1977年に戸部教会主任司祭兼修道院長として、1979年に、再び四日市にて倫理学の教師、1983年に、戸部教会の助任司祭、1985年に主任司祭として、主任司祭の職務の傍ら外語大付属高校でスペイン語を教えていました。
1995年最後の務めの場となる東京駒場修道院へ移られました。そこで、修道院長として活躍し、2000年には、日本語の勉強のために若い修道者の新しいグループが駒場へ送られた彼らのための養成担当司祭として、また霊的指導者として尽力されました。
このような神父様の人生においての様々な責務を果たした事を話しても、ロレンソ神父様が良い心の持ち主、優しく謙遜な、いつも皆のために心を開いていた性格を表すには十分ではありません。神父様をご存知の方でしたら、強く揺るぎない信仰、宣教活動における精神、そして他者を助けその人々に寄り添いたいという気持ちを持っていたことはお分かりでしょう。
そして神父様は、瞑想的な部分もあり、祈り、霊的そして神学的な書物や記事を読むことにとても熱心でおられました。これらは、決して珍しいことではありませんでした。神父様の宣教活動には、聖書グループ、洗礼のための教理(カテキズムの)準備や他の活動においても様々なグループの指導をしていました。
25歳で来日し、91歳で帰天され、日本の宣教のため66年という年月を捧げられました。その月日は「日本に対する愛」の気持ちが礎となっていたことでしょう。生前神父様は、日本での宣教活動を完結させる形の意味で、ご自身の生涯を日本で全うしたいとハッキリと希望されていました。私が神父様とスペインへの帰国について話し合った時も、神父様は、最期まで日本での職務を続けたいと求められていました。そしてその願いが、今日神様によって実現されました。
今思い出すのは、私が駒場修道院を訪れた時、神父様と一緒に麹町教会に行ったことです。その時、私に日本のエスコラピオス会の修道者が眠る場所(納骨堂)を見せて下さいました。神父様は、いつかご自身もそこに納められることを希望されていました。
ご自身の信仰にとても忠実に生きた方でした。マタイの福音25章に、「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものにも忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」とある様に神父様が神の御国へ迎えられたと信じています。神父様のような方は、私たちの信仰を強め、また私たちが最大限に人生を歩める様に勇気づけて下さいます。それも、簡単な方法で長い話はせず、単純な日々の生活の中で、私たちに「忠実を愛すること」の意味を示して下さいます。私たちもロレンソ神父様から倣いましょう。

教会だよりのアーカイブ

TOP