2021年08月775号
ゆるしの秘跡(前半)
【ラジュ・アントニー】
ある日、預言者ナタンがダビデ王の王宮に入りました。衛兵は誰も彼を止める勇気はありませんでした。彼は王の前に着くと、王の犯した罪を指摘しました。ダビデは自分のしたことを思い出し、悟りました。彼は自分の罪を認めると、ナタンに「わたしは主に対して罪を犯しました」と言いました(サムエル記下12:1-13)。
私たちが罪を犯したというこの気づきは、神との傷ついた関係を建て直すための最初の条件です。ゆるしの秘跡は、カトリック教会の最もユニークで美しい側面の一つです。この秘跡の聖書的根拠として、カトリック教会のカテキズムは次のイエスの言葉を引用しています。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:23)。 ゆるしの秘跡には、痛悔、告白、償い、罪のゆるしという四つの要素があります。この四つの要素を一つの教会だよりに入れるとちょっと長くなるので、今回の教会だよりでは痛悔についてだけ話しましょう。来月の教会だよりで次の三つの要素について話します。
最初の要素は「痛悔」です。これは、わたしたちが罪を犯したということを謙遜に受け入れることです。ダビデ王は自分の過ちに気づいたとき、「わたしは主に対して罪を犯した」と告白しました。聖書には悔い改めの行為の例が数多くあります。その中には個人、社会、国家のものが含まれます。エリヤがアハブに対して彼の非道に対する恐ろしい判決を告げた後、アハブが悔い改めたことが書かれています。彼は深い悲痛のしるしとして「衣を裂いた」のです。 彼は身に粗布をまとって断食し、粗布の上に横たわって、打ちひしがれました。(列王記上 21:27-29) 。
ペトロはイエスを三度否定しました。しかし、彼はそれに気づいたとき、悔いる気持ちで満たされました。ペトロは主の言葉、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」を思い出しました。 そして、彼は外に出て、激しく泣きました。(ルカ22:54-62)。ペトロは自分の過ちに気づき、ひどく涙を流したのです。これは本当の悔い改めです。
イエスは放蕩息子のたとえ話の中で、このことをより明確に語ります。「息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』」(ルカ15:11-32) 。放蕩息子は我にかえったとき、自分の間違いに気づきました。このように、私たちにとってまず必要なことは、罪を犯したという事実を受け入れているということです。
悔い改めは、単なる後悔の気持ちの表出ではなく、真実で偽りのない心の悲しみでなければなりません。旧約の預言者たちは、心からの痛悔の必要性を特に強調しました。詩編作者は、神は「悔い改める心」を決してさげすまれないと言っています(詩編51:19)。そしてイスラエルの人々への呼びかけはこうでした。「心からわたしに立ち帰れ。・・・衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。」(ヨエル2:12-13)
罪を犯したという事実を受け入れることは最も難しい部分です。神がアダムに彼の不服従について問うたとき、彼はそれをエヴァのせいにし、彼女はそれを蛇のせいにしました(創世記3:11-13)。自分の行為の責任を他の誰かに押し付けるのは人間の性質です。しかし、私たちは主体的に行為し、自分の行為に対する責任を受け入れることができなくてはなりません。悔い改めとは、わたしたちが再び罪を犯さないと決心することです。放蕩息子が我にかえったとき、彼は立ち上がって父親のところに行くことに決めました。ですから私たちは、今の状況から立ち上がり、前に進むことを決めるべきです。悔い改めの祈りの中で、私たちは、「神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、豊かなあわれみによってわたしのとがをゆるしてください。悪に染まったわたしを洗い、罪深いわたしを清めてください」と祈ります。ひと度このように決心すれば、私たちは次の段階に進みます。それは罪の告白です。来月の教会だよりでこれについて話しましょう。