修道会の歴史

エスコラピオス修道会とは

エスコラピオス修道会は青少年教育を目的とする修道会です。

1597年、聖ヨセフ・カラサンスにより、ローマ郊外の聖ドロテア聖堂に子供たちを集めて、西欧最初の無月謝の学校が開かれ、多数の教区付司祭の共鳴を得ました。

1602年、教皇タレメンス8世は彼らを青少年の教育を目的とする在俗集団として認可、1617年6月13日バウルス5世は、このエスコラピオス在俗集団を「天主の聖母在俗司祭集団」と合併させましたが、まもなく分離。1617年「敬慶な学校の神の母の貧しいパウロ修道会(Congregatio Paulina Pauperum Matri Dei Scholarum Piarum)」の名称で通常誓願修道会とされました。1621年、グレゴリウス15世により公式誓願修道会として認可され、翌年当修道会の会憲が認められました。

その後、1643年、修道会内外に問題が生じたため、インノケンティウス10世によって1646年に当会は誓願なしの在俗集団に変更され、会は解散の危機に瀕しましたが、1669年、タレメンス九世により、再び公式誓願修道会に昇格、以前の権利を取り戻しました。以後、当会は世界各地で幅広く活動しています。

日本には、1950年10月に同会司祭2名が横浜教区に来日、以来、多数の修道会会員が来日しており、青少年教育や、小教区司牧等に携わっています。現在、四日市市と横浜市に小教区二つを持ち、教育活動は、二つの幼稚園及び四日市市の海星中・高等学校を通して行なわれています。総本部はローマ。日本本部が横浜市の戸部教会となっています。

カラサンス01
エスコラピオス修道会の創立者
聖ヨセフ・カラサンス肖像画
(マンディオラ画)

活動

エスコラピオス修道会の目的は、青少年の人間的・キリスト教的な教育を通して、社会の刷新を図ることにあります。創始者聖ヨセフ・カラサンスは「幼い頃からの教育」が重要であるとした為、活動の重点は基礎的な教育及びキリスト教敬要理の教育を目的とした小・中学校に置かれています。このエスコラピオス修道会の設立した学園は世界各地に250余の学校を経営し専ら男子青少年の教育に専念。その卒業生の中には教皇ピオ九世、ゴヤ、メンデル、モーツアルト、シューベルト、ハイドン、ガウディー等多数の著名人がいることが知られています。

一方、広く哲学・神学の分野にも着目し、ガリレオ・ガリレイやカンパネラを認める等、各々の時代における革新的な面に大いに貢献して、神学校の指導や中央ヨーロッパでの反宗教改革運動にも加わり実績を残しています。又、創始者の精神を生かし、身体障害児、ことに視覚障害児や聴覚障害児の為の学校を設けたり、小教区の司牧に協力したりなどの宣教活動にも携わっています。当会の総長は六年ごとに改選され、四人の顧問と共に修道会を指導し、最高責任を負っています。

霊性

エスコラピオス修道会の会意は「清貧」「貞潔」「従順」という三つの誓願の実行と「青少年のキリスト教的な教育に献身する」という第四誓願の実行を通して、愛徳の完成を修道会会員に勧め、霊性を祈りと修業の精神によって養うよう命じています。黙想は、キリスト、ことにキリストの受難の神秘を中心とし、主に聖イグナチウス・デ・ロヨラの祈りの方法に従って行なわれています。又、ご聖体に対して特別な信心が育てられており、授業時間の問に交代で少数の生徒と共に、ご聖体の前で祈る(Oratio Continua)習慣があります。同様に聖母に対する信心も大切にされ、カラサンスの時代から毎日五つの詩編が唱えられていますが、この詩編のラテン語分の頭文字が「MARIA」になるようになっており、祈りは常に「天主の聖母の御保護によりすがりたてまつる…」という交唱で終わります。霊性は、主に修徳的といえますが、会員の中には、聖ヨセフ・カラサンス、聖ボンピリオ・サリストリ等の神秘家もいます。

カラサンス02
聖ヨセフ・カラサンス
(セグレイエス画)

聖ヨセフ・カラサンスとは

聖ヨセフ・カラサンスは、1557年9月、スペインのアラゴン地方のベラルタという町に、8人兄弟の末っ子として生まれました。

父親から後継者として育てられていたカラサンスは、様々な障害を乗り越え、1587年12月17日に叙階、司祭として約8年間種々の役割を果たし、神学博士号を取得した後、1592年ローマに赴きました。滞在期間中、社会の悲惨さを深く経験し、神と隣人への奉仕に心を奪われ、スペインでのセビリア教区の参事会員になることを断ったのです。

「神に仕える道が、やっと見つかった。その道とは、社会から追いやられている青少年のために全力を尽くすことである。私はその道から離れることができない

カラサンスはローマの聖ドロテア教会に小部屋を借り、幾人かのボランティアと共に、近所の恵まれない子どもたちの教育に励んでいました。そして、1600年、教育を受けることの出来ない階級の子どもたちが、何とかして教育を受けられるようにと働きかけ、学校をローマの中心に移転しました。しかし、急激な生徒数の増加に、経済は逼迫し、危機に瀕しました。カラサンスは国会に援助を、ローマの教師達、修道会にも要請をしましたがことごとく断られました。

その時、カラサンスは、あらゆる困難にあっても、無償の教育事業を続けることが自分に与えられた使命と確信したのです。

新しい修道会の創立者となる事は不本意ではありましたが、教育に捧げる生涯を絆とし、多くの協力者とともに共同体をつくりました。

1602年には「スコラ・ピア」(Schola Pia)という修道団体の存在が知られてきました。

1617年3月25日、青少年、特に教育を受けられない子どもたちの初・中等教育を使命とする修道会(教会では最初)が、バチカンから正式認可されました。

カラサンスは50年間、青少年の教育を通して神に仕えました。「キリスト教社会の改善は、教育事業を熱心に実行することにあると断言する。もし、幼少時から畏れの念と学問の精神が教え込まれるなら、一生涯にわたる堅実な歩みが、疑いなく期待される」とカラサンスはその動機となった考えを会意に書き残しました。

「教育者とは、神(真理)の協力者である」と常に繰り返し主張していたカラサンスは、92歳で(1648年8月25日)ローマにて帰天、二度と故郷に帰ることは出来ませんでした。

彼の教育理念のいくつかの特色は、ヨーロッパにおける庶民を対象とする、無償で学校教育を受けるシステムをつくった最初の創立者であり、この学校制度は知的な教育に留まらず、人間形成の倫理的、宗教的な教育をも包含し、全ての子ども、特に恵まれない子どもたちに開かれたものでした。

又、教育は青少年のための義務であると主張し、こうした考え方によってなされた組織的・計画的な教育が実を結んだのです。

さらに、生徒の就職をも考慮し、文科系はもとより、理科系もまた重視しました。経済的理由で長く在校できない生徒のために、カラサンスは短期で簡単明白な教え方、固定化された教育法ではなく、最新かつ進歩的な教育研究とその取り入れを教師たちに要求しました。

現代社会において、教育ということは当たり前のように行われていますが、17世紀のローマでは特権階級のみ行われており、カラサンスの大胆ともいうべき思想と革命的計画、例えば授業料免除、教科書学用品の無料配布などは貴族や金持ちから激しく非難されました。

1748年8月18日列福、1767年7月16日列聖、1948年8月25日ピウス12世によって義務教育を行うすべてのカトリック学校の保護者として宣言されました。

エスコラピオス修道会の来日への過程

1949年12月2日、スペイン・バスク管区長フアン・マヌエル・デイアズ神父は、エスコラピオス修道会総会長ビセンテ・トメク神父宛に手紙を送りました。その内容は、「日本の横浜教区に宣教師を送りたい」というものでした。

翌日、12月3日、同総会長神父は、バスク管区長宛に「横浜教区脇田司教と連絡をとって宣教師を送る約束をし、日本での宣教師の仕事を引き受ける」との手紙を送りました。これら2通の手紙は、偶然にも行き違いでしたが、バスク管区の神父達は神秘的な感じを受けました。

そこで日本行きの志望者を募ったところ、26名にもなりました。その中から、フェリチアノ・ペレス神父とペドロ・ルイス・ペレア神父が、1950年9月21日スペインを発ち、10月3日に羽田に降り立ったのです。

カラサンスレター
聖ヨセフ・カラサンス直筆の手紙

神の母聖マリアのヨセフは、教皇バウルス5世によって設立された「敬慶な学校の神の母の貧
しいパウロ修道会」において、エスティアニ枢機卿の手により、自由意思をもって、心から全能
の神に従順、貞潔、清貧の誓願をたて、1619年3月6日に教皇バウルス5世によってだされた設
立の宣言書に基づき、一生、この誓願が有効であることを望み、自筆にて証明します。
1620年  神の母 聖マリアのヨセフ・カラサンス

(「エスコラピオス修道会50周年記念誌 2000年12月3日発行」より抜粋)

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