教会だより

2022年11月790号

死者の日によせて……

マリアの娘 エスコラピアス修道女会

前田 菊枝

死者の月になりました。

私たちはいつも亡くなった兄弟や、また自分の死について考えておくべきだと思うのです。お墓を見るたびに、「私がこの中に入る日はいつなのかしら」と深刻に考えながらあの創世記の「あなたはちりであり、ちりにかえらねばならない…」という言葉を、身にしみて感じるのです。だいぶ前に、知人が亡くなって火葬場に行きました。箱の中にはきれいに着飾ったお嬢さんが眠っているように静かに横たわり、回りには美しい白い花がぎっしりつめられて、このまま天国に飛ばせてあげたいようでした。涙にむせびながら、お母さまや妹さんが一生懸命声をかけても答はなく、あのかわいい笑い顔はもう戻ってきませんでした。私は、本当に、死とはふしぎなものだと思いました。「昨日まで、にこにこしながら笑ったり話したりしていた人が、神さまに召されてしまうと、もう返事もしてくれなくなるなんて。それにしても、霊魂は一体どこへつれて行かれたのかしら。一しょになっているものを離すことは、ずいぶん難しいお仕事みたいに思えるけど。でも神さまがお合わせになったものですもの、神さまだけがお離しになることができるはずだわ」と私は自分なりに解釈して自分にいいきかせていました。

 一時間後、そのお嬢さんは火葬にされて出てきました。私はそれを見たとき、声も出ませんでした。あの箱やあの花々はどこに行ったのでしよう。それよりも確かにあそこに入っていらしたあのお嬢さんは、一体どこに行ってしまったのでしょう。影も形もないのです。残っているのは、燃えつくされたあとのわずかな灰だけでした。私は、「確かに、人間も他のものもすべて、ちりなのだ」と、そのときつくづく思ったのです。そして、どうしてこのちりどもが神さまのことを忘れて毎日生きているのか、本当にふしぎでたまらないのでした。

「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:20-21)

祭壇に捧げられているカードに名前を書かれた人々が、無事に天国に入れるように皆様祈りましょう。

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