教会だより

2018年08月739号

故郷

アダム・クジャク】

今年の6月17日に私の母は90歳の誕生日を迎えました。1月位から兄をはじめ、家族全員から母の為のミサをポーランドで一緒に挙げてほしいと頼まれて、帰国することにしました。

ティヒ(Tychy)の教会(保護聖人は聖パドレ・ピオ)で、主任司祭とともに母のお祝いのミサをあげました。私は説教をしたとき、自然に過去のことを思い出しながら話をしていましたが、前に座っていた女性たちの涙ぐんでいる姿を見た途端、いつもそんな事になったことのない私も喉がつまり、言葉が出ず続けることが出来なくなってしまいました。

ミサの後で、バチカン大使から頂戴した教皇フランシスコの祝別の証書とロザリオを母に渡し、母も感謝のうちに喜びと感動の興奮のあまり、息子である私に「キスをしても良いか」と聞いて、会場の皆を沸かしました。

そのあとパーティー会場に移り、思っていたより大勢の方々が集まってくれました。中には大分会っていない親戚も来てくれましたので、私は名前がわからない人もいましたが、兄から囁きのサポートをしてもらってどうにか失礼にならずにすみました。幼い頃に会ったことがある子が、身長が2メートル位に成長し、彼らを驚きながら、そして見上げながら、話をしました。母はプレゼントと沢山の花束に囲まれました。(日本の信者の方々からもお祝いの言葉や品々をありがとうございました。)そしてその花束は父と、妹、姉の墓に飾るように決めました。母が中心のパーティーでしたが、私にも日本の宣教や、日本での生活について質問攻めでした。

滞在中は母の家に泊まって、毎朝ミサをたてに近くの教会に通っていましたが、以前の母の健康状態とは違い、毎朝行く事は不可能となっていました。私はミサの帰りに、パンや少しの買い物をして料理を作っていましたが、「あなたの作ったものは美味しいし、あなたと一緒に生活をしていると楽しいから、日本に帰らないで。」と言われてしまいました。もちろん母は、神様から与えられた使命を果たさなければならない事は承知しています。でも前には言葉にはしなかったのに、今回は母の歳を感じました。

時々、自分の洗礼を受けた所属教会(2万人信者)の司祭たち6人とも一緒に朝食を食べる機会がありました。大学で教えている司祭は、日本にとても興味があり、是非に日本に行きたいと言われました。

亡くなった姉と主人の家、(6年前に戸部教会の何人かの方々も行ったことある家)に兄たちと集まり、母を囲み、5人の子供の内、姉と妹が亡くなって、残った兄弟3人で、支え合い、助け合う中に、家族のきずなの強さを再認識しました。昨年妻(私の姉)を亡くした義理の兄は生きる目的を見失っているように、姉はどこに行ったか、彼女に会いたい。天国に行った姉に私も天国で会えるかとしきりに聞かれました。最愛なる人を亡くし、自分の半分が無くなってしまったような姿に夫婦のきずなの深さを感じました。

まん中の3日間にクラクフのエスコラピオスの修道院に行き、管区長と司祭や仲間と話をしました。昔の「祈りの会」のメンバー(大人になった)とも会う事が出来て良い機会でした。

「Octava」の指揮者にも会うことが出来ました。彼らは聖歌隊でこの8月に軽井沢で大会があり来日します。そして8月26日(日)は丁度カラサンス祭ですから、戸部でコンサートをしてくれることになりました。10時半のミサの中、そしてミサ後に歌ってくれます。

Tychyに戻ったら、高等学校のクラス会を開いてくれました。今はフィラデルフィアでコラーゲンの研究をしている人、ドイツでバイオロジーを教えている人、ニュージーランドで映画のプロデューサーをしている人、私は日本で働いていて、それぞれの活躍を聞き、世界は狭くなってきて一つの村になっていると思いました。話をしていると昔から変わらないように思いますが、白髪、しわが見えると、時の経つ早さを感ぜずにはいられませんでした。

日本に帰国する前、母からの抱擁をされた時、今生の別れかなと感じました。

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