教会だより

2022年04月783号

四旬節黙想会

【アダム・クジャク】

暖かな日となった3月13日、指導司祭に田村宣行神父様をお迎えし、四旬節黙想会が行われました。「それぞれの召命」をテーマに、田村神父様の体験を振り返りながら、お話しいただきました。スライドで多くの思い出の写真を見せていただき、またいくつもの歌を、ギターを弾きながら歌ってくださいました。神父様の歌はYouTube(ユーチューブ)のチャンネル「サレジオキッズ聖歌」で公開されているものもあります。

◆ミサの説教(要約)

今日の福音「主の変容(ルカ9・28b-36)」、ペトロ、ヨハネ、ヤコブにとってこの山での体験は素晴らしいものだったと思います。私は山梨県の出身で、地元で間近によく山を見ていましたし、山に登ってもいました。バスに乗って山々に登りに行ったことや、縦走したこともあります。山頂についた時、雲が眼下にあり、それを見下ろしたことは忘れることのできない素晴らしい特別な体験でした。しかし、私達は、現実の生活の中で苦しい体験もあるかもしれません。ずっと昔のことですが、神学生のころ、宮崎県の日向学院で実地課程として寮の監督をしていた時、うまくいかないことがあり、海まで自転車で行ってバカヤローと叫んだ記憶があります。今となっては、試練であったと思いますし、良い体験でした。また、登山を含めた黙想会に参加したときのこと、その前のことでモヤモヤした気分でいたのですが、山に登って気分が高まっていたのか、走り叫びながら山を降りてしまいました。今日の箇所の、ペトロが「仮小屋を建てましょう」と言ってしまったのも、気持ちが高ぶって何を言っているのか、わからなかったのだと思います。私達も、特別な体験、素晴らしい体験があれば、日常生活における苦しいことも乗り越えていけます。イエス様も、特別な体験を弟子たちにさせることによって、やがて良いことがあるよと、弟子たちや私達に示してくださっているものと思います。

第一朗読「神は忠実なアブラハムと契約を結ばれた(創世記15・5-12、17-18)」。アブラハムは神様を信じていました。私達も苦しいことを乗り越えていくために信仰が必要になってきます。どんな出来事に対しても、信仰の目で見て、信頼していくことが大事です。私達は、愛されている喜びの体験を子どもたちに伝えていく必要があります。直接は言わなくても、ふれあいを通して親しみを感じ、私達の存在を思い出してくれれば、それが神様の愛になります。私達もキリストとの喜びの体験があり、子どもたちに伝えていくことで、従って歩んでいくことができます。

私達は苦しみを引き受ける覚悟が必要です。イエス様も苦しみを受けられました。今、私達は四旬節の中で、苦しみの体験や試練の道を歩んでいます。ウクライナの人や世界中のいろいろな所で起きている争いによって苦しんでいる人たちがいます。私達の目指すところは苦しみではありません。イエス様が栄光の姿を現してくださったように、苦しみの先に喜び、復活と栄光があります。希望を失いかけている、失っている人がいます。そういう人たちに、希望のメッセージ、復活の喜びを伝えることができるよう、私達は希望を持って、それぞれの苦しみや十字架を担って生きて行くことができるように祈りましょう。

◆第一講話

♪「いのち」(シスター古木)

どんな人にも、神様からいのちを与えられている、それだけで私達にはありがたい大切なことです。

♪「わすれないで」の替え歌

人は神様の似姿としてつくられました。神様の欠片が私達の中にもあるのです。洗礼によって、神の子供である私達はキリストに従うものとなりました。全ての人は聖なるものとなりなさいと招かれています。私達はどのように神の呼びかけに応えるのでしょうか?

私の場合、カトリックの幼稚園を卒園し、小学校に入りました。その頃から日曜日に教会に行かないという選択肢はないほど、教会にどっぷりと浸かった家庭で育ちました。サレジオ会の神父様と出会いがあり、長野県の野尻湖にあるサレジオ会の山荘で夏の聖書学校では、サレジオの志願生たちのようになりたいと思い、中学・高校はサレジオ学院に入ることになりました。

♪「主の祈り」(雨宮泰紀)

天の父からずっと呼ばれているこの人生で何をしていけば良いのか、使命を果たすように、それぞれのいのちが招かれています。中学高校での志願院における共同生活の中、司祭になるために養成を受け、厳しい面もありましたが、色々なことを教えてもらいました。今振り返れば、それらが生きています。

大学生になり、調布に移りました。ユースセンターで中学生に英語を教えていました。

サレジオ会は教育修道会であるので、子どもたちが幸せになるように一緒に過ごして教えています。その後、修練生の時期を過ごし、修道者としての道に入りました。

◆第二講話

私にとって召命の導き、人との出会いで影響を受けることが、神様の導きや聖霊の働きであったと思います。人生は、誰に出会うかで変わる。今日、私と出会ったことでも、皆さんに新しい影響が生まれたら良いと期待します。色々な人との出会いを大事にしていくことが大切だと思います。

召命の始まりを考えると、家族でした。厳しかったですが、カトリックの信仰は父と母から受け継ぎました。父と母は青年の頃、導かれてカトリックの信者となりました。中学になると寮生活で、母からの手紙の最後には、「祈っています。神様が導いてくださるので、いつも祈っていましょう。」と書かれており、色々大変なこともあった中でも祈りが大事なことでした。

神様の道具として、それぞれの与えられた才能、賜物を生かしていくことも召命に応えることになるのだと思います。

♪「私をお使いください」(上村幸一郎)

私が今日一日を、人のために、自分の体と心をお使いください、と過ごしていけば、すばらしい世界になると思いますし、キリストの弟子として神様の道具となって奉仕していくことが、損ではなく、むしろ自分のためになり、幸せ、天国への道なのだと思います。

♪「最後だとわかっていたなら」(ノーマ・コーネット・マレック、上村幸一郎)

あなたが生きているだけ、生きようとしているだけで良い。神様の子供として、一人ひとりが自分の人生を一生懸命に生きているだけで神様が助けてくださる。皆さんがどう生きてきたのか、人生を聞くだけでも、分かち合うだけでも神様の導きがあることを感じるのではと思います。(文責:数野光賢)

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