教会だより

2019年10月753号

エスコラピオス教育者:真理の協力者

ラジュアントニー

聖ヨセフカラサンスはどのように教師に定義したのでしょうか。キリストの言葉(ヨハネ8-22)―そして彼らは真実を知り真実は彼らを自由にする―

事実、教育は何物にもまして、自由への課題であり、自由は真実の果実である。今日、多くの人々が「自由教育」について語る。カラサンスは彼の時代において既に真の意味での教育はその本質において自由であることを理解していた。

教育者は真実の協力者であると定義されていた。人間は無知、情熱の無さ、そして原義的な欠陥やエゴイズムから解放される限り、教育を授けられるのである。自由には2つの段階がある。理論的な物、そして道徳的な物である。彼の信心と学びとともに、カラサンスの学校では本当に無知や悪習から人々を自由にし、幸せにすることを自負した。カラサンスはこう書いている。我々の学校のゴールは、キリスト教の教典と人々の言葉による教育であり、学生たちは、永遠の生命を得るであろう。永遠の命は、神の愛によって導かれるものである。教育を行うもの、解放するものは、真実である。教師たちは二次的な働きを行うものであるが、非常に重要である。

教育者の瞑想は必須(なくてはならない)である。解放は瞬時に得られるものではない。一般的には苦痛を伴う長い道のりである。作家が書いているように人は世界で愛を得るための自由である。少しずつ少しずつ自由を得ること、そのことにより本当の自由になるのである。教育者は真実とともにあり、その為より自由なのである。真実、単に理論的な意味としてではなく、むしろ実存主義的な真の意味での「真」は愛とともに最後に認識されるものである。

そして、このことにより、解放するのである。「愛すること、それによりあなたが望むものになれるであろう」聖アウグスティンの有名な言葉である。「神は愛である」聖パウロは書き記した。キリストの存在そのものが「愛」である。母と教師である教会とともにある事は全ての人々への教育というミッションを持っている。彼らを自由にする(解放する)という事が全てなのである。真実とともにあるという事は、社会の中でともに働くという事であり、もちろん子供達とともにあるという事が教育の最も重要な方法である。

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