教会だより

2020年02月757号

エスコラピオス会とマリアの娘エスコラピアス修道女会

アントニー・ラジュ

戸部教会に通っていますと、エスコラピアス会のシスターがいらっしゃるのがわかります。今日はエスコラピアス修道会の創立者の聖パウラ・モンタルの生涯と聖ヨセフ・カラサンスとの関係性について紹介したいと思います。

聖パウラ・モンタルの記念日は2月26日が祝日で、今年は灰の水曜日に当たります。皆様が知っていらっしゃるように、カラサンスファミリーには4人の聖人がいます。 聖ヨセフ・カラサンスは1767年に教皇クレメント8世によって列聖。聖ポンピリオ・マリア・ピロッティは1934年に教皇ピウス11世によって列聖。聖ファウスティーノ・ミゲスは、2017年に教皇フランシスコによって列聖されました。マリアの娘エスコラピアス修道女会の創立者である聖パウラ・モンタルは2001年に教皇聖ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。

パウラ・モンタルは1799年10月11日、ラモン・モンタル・フォルネスと妻ビセンタの娘5人の長女として生まれました。父親は彼女が10歳の時に亡くなり、彼女は姉妹を育てるためにこの街の工業でもあったレース編みをして、生計を立てなければなりませんでした。そして彼女はまた自分の教会の子供たちの担い手でもありました。

29歳の時、パウラはもっと神への愛を、そして女性の教育を考えたいと思い、友人イネス・ブスケと学校を開くためにアレンジを出て、フィゲラスに行きました。その当時は女子への教育など考えられない時代でしたが、神の愛と女性に相応しい仕事と、最も必要とするすべての人々に学問を教え始めました。学校は急速に成功し、彼女は1842年にアレンジに一つの学校を設立し、そこでパウロ会の司祭から、マタローのエスコラピオス会の司祭に会うように勧められ、そこで1846年にサバデルという町に行くように司祭から指示をされ、ここで彼女は学校のみならず修道院を創立したいと関心を持ち始めました。

1847年にサバデルにもう一つの学校を設立することができました。その当時のエスコラピオス会総長代理のハシント・フェリウス師、また後の修道会最初の指導司祭のアウグスチン・カサノバ師より聖ヨセフ・カラサンスの真の精神を知り、教育学、会則、エスコラピアスの名前を受けるに至りました。

彼女は1847年、サバデルの学校の御聖堂でカサノバ師の司式のもとパウラとブスケツとフランシスカの誓願式が行われ、その時に「聖ヨセフ・カラサンスのマドレ・パウラ」の名前をいただきました。修道会は1860年に教皇ピウス9世から正式に認められました。

聖ヨセフ・カラサンスが会憲の序文にある「子どもが小さいときから畏敬の精神と学問のうちに教育されたら堅実な一生を送ることができる」というインスピレーションを修道女会のものとし、母性的愛の手本であるマリア様から「マリアの娘・エスコラピアス修道会」としました。

パウラ・モンタルが聖霊にゆだねられた使命「子どもたちに神の愛を教え、家族を救う」それを心に祈り、犠牲し、働き、絶えず微笑みを忘れることなく教育に力を入れ霊的生活をされました。パウラ・モンタルは1889年にバルセロナで亡くなりました。

列聖調査は、1957年5月3日に教皇ピウス12世の下バルセロナで開始しました。このプロセスは、彼女に「神のしもべ」の称号を与えました。1987年にローマの列聖省に提出されました。1988年11月28日、教皇聖ヨハネ・パウロ2世が英雄的な徳の人生を認めた後、彼女は尊者であると宣言されました。

彼女の列福のために必要な奇跡は教区裁判所の対象となり、ローマで奇跡を評価するために1991年に正式な批准命令を受けました。教皇聖ヨハネ・パウロ2世は1992年12月21日に承認し、1993年4月18日に彼女を列福されました。

聖人となるために必要な第二の奇跡も調査され、ナタリア・ガルシア・モラという8歳の少女に1993年9月に起こったと言われました。このプロセスは1996年に批准され、教皇聖ヨハネ・パウロ2世は2000年半ばにそれを承認しました。教皇様は2001年11月25日にパウラ・モンタルを聖人と宣言しました。

聖パウラ・モンタル、私達のために祈ってください。   (参考:霊性の泉)

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