教会だより

2021年03月770号

イエス•キリストの贖い

アダム・クジャク

灰の水曜日から四旬節に入りました。特にこの時期カトリックの信者はイエスの贖いの受難(贖罪)を黙想します。そしてなぜイエスは私たちの罪を贖うために十字架の刑を受けられたのだろうかという疑問が湧いてきます。人間の罪を贖うために他に方法はなかったのでしょうか。

聖書には「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、あがないの供え物として御子を遣わされた」(ヨハネの手紙一 4.10)と書いてありますが、神様が人間を救う計画としてイエスを犠牲になさった事を理解するためには、出エジプト記に書かれている過越しの出来事について書かなければなりません。しかし過ぎ越しのいけにえと教会の秘跡の関係については前にも書きましたので今回は他の例に基づいてイエスのいけにえ、人間の罪の贖いについて説明したいと思います。

1. 原罪によって人類は罪を犯す傾向があります。皆、罪人となれば罰を受けるはずです。例えば国の法律を誰かが破れば罰せられます。交通規則に従わなければ罰金を払わされます。人を殺せば警察に捕まり、そして裁判所に連れて行かれ、裁判官が判決を出して処罰を決められます。

では例えとして、突然見知らぬ人が裁判官に、「私はこの犯罪人の身代わりに処罰を受けたい」という申し出をしてきて、裁判官が許可をしたとすれば、見知らぬ人は代わりに処罰を受け、犯罪人は社会に戻され釈放されます。こんな出来事とは?この見知らぬ人とは?これはイエスの象徴です。何の罪もないイエスは私たちが受けるべき永遠の死、すなわち地獄に行く魂の罰を受け取られ、十字架上で亡くなりました。そして私たちを救われたものとなさいました。

2. 別のたとえ話でイエスの贖いの苦しみを説明しますと、下水処理場を想像してみてください。下水処理場とは下水道の汚水を浄化し、河川、湖沼または海へ放流する施設のことです。汚水はパイプで下水処理場に送られます。中で浄化されたきれいな水は河川、湖沼に戻りますが、汚濁、汚染、汚物は下水処理場に沈殿して残ります。イエスは私たちの罪の汚れを全部受け取って、十字架上の苦しみの痛みで、代価を払って下さいました。私たちは罪の汚さでイエスを殺したのです。そして私たちの霊魂を浄化できる為の霊的な水、すなわち洗礼と赦しの秘跡を与えて下さいました。

ファウスティナの絵に描かれた胸元の開いたところから、赤と青白い二本の大きい光はどういう意味か説明して下さいました。

「この二つの光は水と血を意味する。青白い光は、魂を義とする水、赤い光は魂の命である血を意味する。(赤い光はご聖体の秘跡、青白い光は洗礼と赦しの秘跡という意味です)この二つの光は、死にかかっていた私の心が十字架上で槍によって開かれた時に、私のいつくしみの中から流れ出た。それらの光のもとに生きる人は幸い、神の正義の御手は、この人を捕らえることがないからである。」(299)と言われた。

大切な四旬節の時、イエス•キリストの受難と苦しみを黙想しながら、神様の愛とあわれみに感謝しましょう。

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