2025年06月821号
神さまとの対話的なカンケイ
【ヨハネ渡辺彰彦(教会委員長)】

教会委員会では毎年、年度末を迎える前に「イエスさまが今、戸部教会に望んでおられることは何か?」という質問で分かち合いをしています。その分かち合いの中でキーワードとなったような事柄が、案外、追って具体的なカタチになっていくのを、時々驚きをもって目にしてきました。その分かち合いを、今年(2025年)は特に、先のシノドスで採用された「霊における会話」方式に準じて行ってみました。(その進め方は、『シノドスハンドブック』参照。インターネットで全文閲覧可能。)
この質問が求めている答えは、「ワタシがやりたい/やりたくない」とか、「ワタシにはできない/できる」というようなことではありません。あくまでもイエスさまがどう望んでおられるのかを見極める、という点にあります。そしてもう一つのポイントは「今」です。50年前でも1年前でもない、「今現在」何を望んでおられのるか、という識別です。結局、答えはイエスさまに直接聞いてみる以外になさそうです。でもそんなこと、本当にできるのでしょうか?メールやLINEメッセージが送られてくるわけではありません。――とりあえず、とにかく耳を澄ましてイエスさまに聴いてみる、そして何かが聞こえても聞こえなくても、こちらの思いや感情をイエスさまに率直に伝え応答してみる。そのように、沈黙のうちに神と対話(しようと)することを、私は祈りと呼びたいと思います。
もちろん、祈りには様々な形があります。祈り方は様々であっても、それを通して、神さまとの対話的な関わりを深めていくことは、祈りの大切な要素でしょう。教会には、その豊かな伝統があり、たぶん「霊における会話」もそれに連なる霊的な賜物です。
「分かち合いは人間のワザ」、「祈りは神との関わり」と言われる方もおられるかもしれません。それに即して言えば「霊における会話」は、神さまにも参加して頂く分かち合いです。そこではまず「聴く」ことが求められます。自分の心の動き(思いや感情)や身体の反応、他のメンバーの発言、沈黙の時間、心の底から浮かび上がる何か…。そこに耳を澄ませてみる。そうやって「人(自分自身や他の人々)を通して、神の声に耳を傾ける」といってもいいのかもしれません。難しいことを「頭で考える」必要はありません。ただ、自分が感じた、心の奥の反応に気づき、それをありのままに認めることは必要でしょう。是非、「霊における会話」による分かち合いを、多くの方に体験して頂きたいです。
ところで、上記教会委員会の分かち合いで最終的に各メンバーから発表されたキーワードのうち、最も言及が多かったのは「信仰の喜びを伝える」でした。次に「関わること」(人に・神に)、そして第3位が「愛」でした。
「信仰の喜びを伝える」ために、私たちにはどんな道具立てが可能なのでしょうか?たぶんそのために、私たちは互いに「関わる」ことが必要であり、それはさらに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15.12)と言われたキリストの「愛」を模範にして、深められる必要があるのでしょう。そんなこと、果たして私たちにできるのでしょうか?
再び祈りの中で、あるいは出来事や他人(ひと)に聴くことを通して、イエスさまとの対話を続けてみましょう。旧約の民の時代から、信仰の旅路のイニシアティブは、常に神さまの側にあります。戸部教会におけるイエスさまの望みの実現も、それを主導するのは、実は私たちの主である神ご自身なのでしょう。ワタシは「主役」ではなく、その小さなお手伝いの一人。キリストの体の一部。そう思うと、何だか気が楽になって自由で嬉しい感じがします。いかがでしょうか。宜しければ、イエスさまにすべてを委ねて、平和と希望のうちにともに歩み続けましょう。私たち自身が小教区共同体として「信仰の喜びを伝える」道具立てとなることができますように。このコミットメントを、聖母の御手に委ねつつ賛美と感謝のうちに。♰ Ave Maria (黙想的な祈りにご興味がおありの方には、「34週祈りの旅(日常生活の霊操)」をお薦め致します。お声がけ下さい。)